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思い出のスーパー林道を軽自動車で辿る
ドレミを塩尻の職場に送り届けてから19号(中山道)を南下する。
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この写真のシャッターを切った直後に下水工事のトラックが現れて停まり、道の半分にゼブラ模様の衝立を巡らせた。ぎりぎりセーフ。朝から何だかついてる。
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寄り道しながら巴淵に着いたのは9時ちょうど。石橋でカメラを構えたのが9時7分。ローカルな電車が来ないかな…と思ったらちょうど宮ノ越を9時5分に出た普通列車がガタゴト通過した。これを逃すと次は2時間後の11時13分…今日のボクはやたらとついてる。
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天気も急速に回復してきた。今日は若い頃から何度もドライブした乗鞍高原へ上がろうと思う。
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かつては暗いうちに渋谷の自宅を出て、松本インターから158号経由で乗鞍高原、スーパー林道で白樺峠を越、奈川からさらに野麦越えして開田高原を通って木曽福島に出るのが定番のコースだった。福島から19号を北上して塩尻インターに入り日帰りで東京に帰る。ホントにバカみたいにしょっちゅう来ては峠道をかっ飛ばしていた。中古のセリカやトレノの助手席にドレミを乗せて…。
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ここでもボクが来てほんの数分だけ風がやんで水鏡ができた。
乗鞍には秋を好んで訪れた。都会っ子のボクたちにとって乗鞍高原の美しさは遠い国の景色のように感じた。原村を見つけたのもこの乗鞍行の帰り道。まさかその原村に移住し、おまけにドレミが塩尻に就職するとは思いもしなかった。遠い夢の国だった松本や塩尻が通勤圏になったのだから人生はけっこうドラマチックだ。
愛犬タローを喪ってから遠退いていた乗鞍行を久々に思い立ったのはたぶん気まぐれである。塩尻から出発なので定番の逆コースを辿ることになる。ところが予めグーグルマップで確かめると、最近の豪雨災害のためだろうか、なんと野麦街道とスーパー林道が両方とも通行止になっていた。
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仕方がない。野麦峠は諦めて、木祖村から直接奈川にアクセスし、スーパー林道で白樺峠の通行止地点まで行って引き返し、奈川(川の方)沿いを奈川ダムまで上って158号経由で乗鞍高原までこれまた往復するという計画である。
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木祖村から境峠を越えて奈川に向かう。スーパー林道の入り口には「この先通行止 白樺峠で折り返し」と書かれた大きな看板が置かれていた。
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前を走っていた横浜ナンバーのクロカンはこれを見て迷わず奈川ダム方面に向かったが、ボクは看板を横目にスーパー林道に入った。
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少し走ったところで猿の群れに出会った。ここはかつて蕎麦屋や温泉がぽつりぽつりとあって、そこそこ観光客で賑わう集落だった。
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集落全体に人気がない。家々の戸や窓は固く閉ざされ今や猿の村になりつつある。
無理もない。白樺峠と野麦峠を通行止にされては、この集落は乗鞍高原とも開田高原とも切り離される。観光客の車の流れから外れてしまって商売にならないだろう。どれほどの災害だったのか分からないが工事の遅れは罪深い。
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集落の中ほどにあるこの素朴な蕎麦屋のメニューには盛り蕎麦とそばがきしかなかった。ここで新蕎麦をたぐるのは秋の楽しみのひとつだったが今日は待っても開店しないだろう。もしかしたらもうずっと開かないのかもしれない。
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先へ進むと道はところどころ落ち葉が積もり、ほとんど車の通行がないことを語物語始める。
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白樺峠着。懐かしいな。沼の佇まいは変わらない。最後に訪れたのは8年前。ここに車を停め、タローを連れて鷹柱を見ようと尾根伝いを登って行った。
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峠の駐車スペースにも通行止の看板が立っているが工事車両が通るためか道は閉ざされていない。どうやら工事個所はずっと峠を北に下ったところにある白樺橋らしい。
行けるところまで行ってみよう。
少し行けば乗鞍岳が見え隠れするはずだ。どうせならあの素朴な集落を滅ぼしてしまった白樺橋の工事というのをこの目で確かめたい。
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道路に積もる落ち葉はますますひどくなるが軽でも走行に支障はない。昔、そこで停まって景色を眺めた。ここでは乗鞍を背景にドレミの写真を撮った…何しろ30年以上前から何度も通った道である。思い出がそこここに残っている。
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そうこうするうちにすぐ眼下に乗鞍高原を臨めるところまで下りてきた。雲が上がって乗鞍岳がまぶしいほどに光って見える。
「あゝ飛騨が見える」
野麦峠で兄に背負われた政井みねが最後に目にしたのは乗鞍岳だった。峠違いだが、ボクも「飛騨が見える」と言いたい心境だった。目の前にある乗鞍高原まで、峠を戻って奈川ダムに迂回すれば40kmはある。1時間半で行けるかどうか。
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白樺橋まで来た。橋は流されていない。通行止になるほどの工事も行われていない。
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看板には来年の3月25日まで工事中と書かれているがビミョウにニュアンスが違う。
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ちょうど工事の人が通ったので
「来春に開通するのですか」
と聞いた。彼の答えは意外過ぎた。
「もう開通してるんですよ。」
「え?」
「どうぞ、今日の重機作業も終わるところですからちょっと待っててください。どけるから」
え?え?え?…今朝から続いたラッキーのどうやらこれが集大成らしい。やたらと立っていたあの通行止の看板は何だったのだろう。
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橋を渡ってわずか500mほどであっけなく乗鞍高原に出た。
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家が近くなってもここはやはり別世界だった。清冽な晩秋の空気までが懐かしい。だがこれだけの景色を前にしても心は全く弾まない。ボクはぼっちの旅に慣れていない。レンズを取っかえひっかえ工夫しながらカメラのシャッターは切る。が、それはただ目の前の景色を淡々と記録しているに過ぎない。
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30数年の昔からボクは別に写真を撮ることが好きではなかったことに思い至った。スポーツ走行を心から楽しんでいたわけでもない。
忌野清志郎の世界である。ただカノジョを助手席に乗せて走りたかっただけなのだ。そして撮りたかったのも風景ではない、風景の中にいるカノジョだったのだ。ずっとずっとそれは今でも変わらない。ボクだけではたぶんない。モータリゼーションの波の中で青春時代を過ごした同世代の男たちはみんなそうだ。カノジョは長い黒髪をなびかせ、車はオンボロでもFRスポーティ車でなければならない。誰かがFFのAT車でも買おうものなら大学での人権を失った。
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その点、黒髪のドレミと赤いTE71(トレノ)は申し分ない青春アイテムと言えなくもないが…18才で入籍したため、正確には「カノジョ」ではなく、ここにドライブに来ていた頃、すでに「妻」であった。
時は流れ今やその彼女の扶養家族となったボクは一人ぼっちでATの軽自動車を駆って再び乗鞍高原にドライブしてきた。
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いつのことだったか…まいめの池にきたとき、ドレミがタオルを忘れて「今日は泳ぐのはなし!」とタローに言った。そもそも晩秋の乗鞍高原である。水は痺れるほどに冷たいのでドレミは年を取っていたタローを水に入れたくなかったのだと思う。一方、禁止されたと分かってもどうしても泳ぎたいタローは暫くおとなしく茂みなどで遊ぶ風を装いながら機会を見計らう。やがてすうっとドレミから死角になる小さな入り江に下りて行った。
ぽちゃり…
小さな水音を立ててすぃーとタローが泳ぎ出した。すぐにドレミにばれて叱られた。しょんぼりと池から上がったタローの毛が車に乗れるほどに乾くまで、ボクたちはずいぶんと辺りを歩いたものだった。
うふふふ…岸辺にしゃがみ、水面を見つめながら思い出し笑いするボクをたぶん通りがかりの観光客は気味悪がっていたことだろう。
お昼をずいぶんと過ぎていた。鈴蘭のあたりに昔はよく立ち寄った蕎麦屋が何軒かあるのでスマホで検索してみると、盛り蕎麦が1,800円だ1,500円だとメニューに書いてある。
やめた。
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昨日JAでヤマザキの薄皮クリームパンが見切り品になっていたのを買い、おやつにでもしようと持って来た。一ノ瀬園地の駐車場でこれを二つ食べた。時間つぶしのぼっち旅にコストはかけられない。
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鈴蘭を東に折れたところから振り向いて交差点を撮った。真っすぐに行けば乗鞍スカイラインである。今は一般車は入れないが当時は普通の有料道路だった。それなのになぜいつも左折して一ノ瀬から白樺峠を越えたのかと言うと、当時もやはり懐具合が乏しかったからである。ここまで走ってくるガソリン代と高速代が精一杯だった。
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乗鞍線を少し下るとペンションや民宿が立ち並ぶエリアとなる。初めて乗鞍に来たときはここで国民宿舎に泊まった。平日のこととて宿泊客はボクたちしかいなかった。ドレミがまだ10代で童顔だったからだろう、ボクは宿の人にかなり不審がられているようだった。
さてそろそろ時間である。158号を下り、サラダ街道を通って今や年相応となったドレミを迎えに行こう。薄皮クリームパンが残っている。ドレミの好物なのでこれをお土産に…。