File012/木曽日義
有名観光地で、外国人をかき分け、古民家カフェに並んでランチするのは体力的にもメンタル的にも経済的にも困難なボクは、たいていこんなショボ旅を楽しんでいます。行く前にどんなに下調べして行ってもやはり現地では新鮮な出会いがあるものです。
はじめに
我こそはにわか義仲ファンである。
「鎌倉殿の13人」(2022年大河ドラマ)を見て、この二人の役者さんが演じる義仲と巴(画力が届かず似ていない可能性があるのでお名前を記した)にすっかりヤラレた。
松尾芭蕉の眠る近江義仲寺が義仲の墓所であることからして不覚にもそのときに知った。芭蕉翁を追うのもおこがましいが、不肖ボクもたちまちに義仲ファンとなり、妻を伴って義仲寺や粟津の古戦場を訪ねたのは去年のこと。そして東京から長野に引っ越すと中信はまさしく義仲の地元であった。とりわけ中山道から北国西脇往還(ほっこくにしわきおおかん=善光寺街道)は義仲が北信、北陸へ進出したルートにあたり、桔梗ヶ原から松本平にかけての神社仏閣では義仲に「縁のない」社寺を探す方が難しいほどである。
「戦勝祈願に立ち寄った神社」「お手植えの桜…二代目」などはまだいい方で、「足跡が川床に残っている」「山越え後に休息した祠」「愛馬の足を洗った清水」などなどゆかりの地のオンパレードである。中には根拠の薄そうな物件もあるが、火のないところに煙は立たず。いずれの史跡も850年の昔、確かに義仲とその仲間たちが躍動した軌跡である。
今回は本拠地木曽日義(ひよし)を訪ねることにした。当然だがオオモノのゆかりの地が集中している。
そもそも日義の地名の由来は「朝日将軍に義あり」であるらしい。
今回も妻を塩尻の職場に送ったあと、迎えに行くまでの約10時間の探訪である。19号を南下して贄川(にえかわ)にてはこれより木曽路、奈良井宿を過ぎると鳥居トンネルである。
巴淵
なんと巴淵は19号線の大きな交差点名にもなっていた。たぶんこれまでに東京から乗鞍、野麦(のむぎ)峠方面にドライブした帰り道、少なくとも30回は通っていた。だがまだ「巴推し」ではなかったのでそれとは気づかなかった。イマドキは「ファン」とは言わずに「推し」という言葉を使うらしいので合わせてみたが用法は合っているだろうか。
実は国道19号(中山道)が辿る川筋は鳥居峠を境に異なる川である。峠の北側では中央アルプス(木曽山脈)に源を発する奈良井川が北に向かって流れる。松本で犀(さい)川に、犀川は長野で千曲川に合流し、信濃川に名を変えて日本海に注ぐ。一方南側は北アルプス(飛騨山脈)の南端、鉢盛(はちもり)山から流れ出る木曽川である。木曽川は濃尾平野を潤し伊勢湾に至る。二つの大きな川がたった1kmを隔ててすれ違っている。鳥居峠は分水嶺ということになる。
木曽川が中山道の谷筋に出てすぐ、木曽山脈から流れてくる野上川を吸収するようにコの字型に蛇行している。中央と北と二つのアルプスの水が合流し、コの字の出口に清廉な瀞を作っていた。確かに誰もが巴を連想するのも頷けるほどの美しさである。
いくら読んでも謡曲「巴」と巴淵の関係は分からない(笑)
謡曲の方もオリジナルでは
「その時義仲の仰せには、汝は女なり、忍ぶ便りもあるべし、これなる守り小袖を、木曾に届けよこの旨を、背かば主従、三世の契り絶え果て、長く不孝と宣へば、巴はともかくも、涙にむせぶばかりなり。」
…とある。義仲は巴に生き延びて欲しくて故郷木曽に届け物を命じている。「女だからと許されなかった」という要約はいささか乱暴に過ぎる。
巴は少女時代にこの淵で水浴し髪を洗った。謡曲史跡保存会の説明では徒歩ではなく馬で来たことが想定されている。彼女の家からこの淵までの道のりは6km強である。なるほど馬ならば並足でも40分ほど、貴人が人目につかずに水浴しようとすればあり得る距離だ。
こちらは木曽町の案内板。巴がこの淵の竜神の化身だったという伝説はありとして、水浴の表現が現代ではアウトだろう。そもそも肌元という日本語はあるのだろうか。この看板も横槍の入る前に書き直した方が無難と思われる。
歌碑 粟津野に討れし公の霊抱きて巴の慕情淵に渦巻く 千村春潮(読み不明)
…ビミョウである。巴は幼馴染の義兄妹として義仲とともに育った。ボクのイメージでは巴が義仲に抱いた恋情はこういうドロドロしたものではなく、もっと爽やかで潔く、淵のターコイズブルーのように明るい。そのあたりファン歴…もとい推し歴1年の新参には計り知れないものがあるのだろうか。故千村春潮氏は地元出身のエンジニアだが漢詩にも長けた才人で晩年は義仲の史跡保護に努られめたそうだ。
さてこちらは風化著しくどうしても読めなかったので帰宅後にネット検索すると、ボクのような好事家のサイトやブログがたくさんヒットして教えてくれた。
山吹も巴もいでて田うへ哉 許六
いやいやいやいや(;^_^A
山吹御前は義仲の愛妾である。言わば巴の恋敵。ここに彫っちゃう?
森川許六は蕉門十哲に数えられた彦根藩士。深川芭蕉庵時代の終わり頃、江戸で芭蕉に学び才を愛でられた。「山吹も…」は巴淵周辺で詠んだらしいが、果たして許六さん、やらかしちゃったのだろうか。それとも女心も考えず石碑に彫った人が罪深いのか。よく見ると彫られた場所も風化の具合も不自然である。
それぞれ巴への想いと願望を湛えて淵の色はまことに美しい。木曽では義仲よりむしろ地元出身の巴の人気が高いようだ。
緑陰に澄んで巴の日を恋ふる シュウ
うーん。さんざん先人の案内や詩にケチをつけていながらこれかよ…である。よく発句するわりにどうやらボクに句の才はない。が、碑が建つ可能性もまたないので人さまに迷惑はかけなくて済む。
動画49秒
旗挙(はたあげ)八幡宮
巴淵にかかる華奢な橋をコミュニティバスが渡って行った。
「車で行けるんだ」
興を覚えてボクも渡って行くと、それはまさしく旧中山道だった。集落に入ると家の軒が道に迫ってくる。ゆっくりと沿道の情緒を楽しみたかったが、如何せん我がNBロードスターはそぉっと走っても乾いた甲高い排気音をまき散らす。迷惑にならぬよう素早く通り過ぎた。
分かれ道ごとに木製のしゃれた標識がたくさん立っている。旧中山道を歩く旅人への配慮だろう。旧道ハイクがシニアの間でいかに流行しているかがわかる。車に乗った軟弱シニアもその標識を頼りに再び木曽川を渡る。中央西線の小さなトンネルをくぐると旗挙八幡宮が見えてきた。
名前の通りの場所だがもちろん当時の遺構があるわけではない。
小さな社と朱塗りの鳥居が佇む風情やよし。
義仲は元服後、この付近に館を構えて八幡宮を勧請したとある。挙兵に呼応した1千騎を揃えた様はさぞかし壮観であったことだろう。
どうやらこの欅はそのときに植えられたものらしい。
南宮(なんぐう)神社
北からの順路だと南宮神社を先に訪れる予定だったが旧道から旗挙八幡宮に出たので少々戻ることになる。19号は交通量がさほど多いわけではないが、この時間は大型のトラックがかなりの速度で往来する。そこに軽トラ御用達の側道から飛び込むわけだが、NBの車高では道路がほとんど見えない。久しぶりにサイドブレーキを引いての坂道発進となった。
古くから宮腰村の鎮守だった南宮神社もまた義仲によって宮ノ越からこの地に遷宮されている。
数年前に修復されたばかり。柿渋で丁寧に塗られた社殿の板壁が美しい。
そしてびっくり。社の後ろには落差20mをゆうに越えると思われる大きな滝がある。1853(嘉永6)年、崖の上を流れる野上川から隧道を穿ち、宮腰村まで上堰(かみせき)用水と呼ばれる農業用水を引いた。その水の一部が滝になったものらしい。その名も旭の滝。一度川筋が変わって消失したが2013(平成25)年に復元された。
境内を流れる町川用水は上堰よりもさらに歴史の古い疎水である。こちらも2018年に練石積み(ねりいしづみ)で美しく整備されている。
旭の滝の流れと町川用水は境内の山吹池で合流する。まことに水の清冽な神社であった。
徳音(とくいん)寺
1168(仁安3)年に義仲が母小枝(さえ)御前を弔うため、巴淵の北、木曽川がコの字蛇行する原因となっている山吹山の麓に柏原(かしわばら…たぶん)寺を建立した。
義仲の敗死後、供養塔を建てて弔うこととなり、号を朝日将軍から日照山、寺の名は義仲の戒名徳音院義山宣公から徳音寺と改名して現在地に移転した。
境内には有名な馬上の巴像があるが、造形的には少々残念(個人の感想です)なので工夫して後ろから撮影した。
江戸時代建立の木曽義仲公霊廟内には等身大の義仲像が奉納されている。こちらは昭和の著名な彫刻家笹村草家人の作。ボクのごとき泡沫の絵本画家ではその素晴らしさはとうてい分からないので、やはり写真は遠目からにしておこう。
さらに石段を上った高台にファミリーの供養塔が並ぶ。左から巴御前、樋口兼光、中央奥が義仲、右に小枝御前、今井兼平の墓
臨済宗の禅寺である。静かで落ち着いた雰囲気は800年の昔に思いを馳せるにはとても相応しい場所であった。
義仲館
徳音寺の前に大駐車場を備えた義仲館というミュージアムがある。これまでなら確実にスルーの物件である。だが今日の旅の第一義の目的は10時間をつぶすことにある。案内を見ると入場料はたったの300円だった。おそらく公営で採算よりも観光客を誘致して地域を活性化する目的の施設なのだろう。無職の髪結いの亭主にも優しい料金設定である。お賽銭と同じく、史跡保存のためのささやかな寄付と思うことにしてエントランスに進んだ。
正面にある巴と義仲の大きな銅像はかなりカッコいい。原型師は喜多敏勝氏。ネット上の情報では勅許御鋳物師・藤原朝臣喜多家の三十代万右衛門氏の三男とある。なるほど、穏やかな巴の表情はどことなく仏像のテイストを感じさせる。
展示すべき遺物が一つもない歴史博物館というのも珍しい。まったく期待していなかったのだがこれがけっこう見応えがある。館員によくしてもらったから言うのではないが、これからはこういう施設も入ってみるものだと思えた。
特にこの絵巻は読みふけってしまった。
芭蕉や芥川龍之介などおなじみの義仲ファンに加え、手塚治虫の「火の鳥/乱世編」も紹介されている。
「巴も男に生まれとうございました」
…と手塚版巴御前はまこと優雅で美しいが義仲のキャラクターデザインはひどい(笑)それより何より手塚ファンとして驚いたのは手塚さんが義仲最後の5騎のひとり手塚光盛の末裔だったということだ。
義仲の生涯をラップ風の歌とアニメで描いた岡江真一郎氏という若いアニメーターの作品も見事だった。ゆるい歌声が今でも心地よく耳に残っている。
広いとは言えない館内を巡って出口まで来ると、受付の人がお茶を出してくれた。二人の館員が代わる代わる話し相手もしてくれる。漬物も頂いた。退館するときにはおまけのシールまでくれた。何だかホントに自分が現代の日本を旅しているのか疑わしくなってきた。
館を辞して高台にある宮ノ越駅に来てみた。集落が一目で見渡せる。義仲の史跡とともに、この村の佇まい自体もまた保存すべきものである。
林昌(りんしょう)寺
宮ノ越からさらに4kmほども南下すると原野(はらの)という集落があり、19号沿いに林昌寺がある。
今回の史跡探訪で最も由緒のはっきりした場所である。
(碑文)木曽中三権守(きそちゅうさんごんのかみ)中原兼遠(かねとお)菩提寺
中三とは中原氏の三男という意味で権守は国守を補佐する律令官僚。京(または但馬国)の生まれで、任地である木曽から中信にかけて強い支配力を持っていた中原兼遠の墓がある。
もしも源平の両方から指名手配となっていた幼児が突然転がり込んで来なければ、そして持ち前の浪花節でその子どもを庇護しなかったならば、彼はただの地方豪族として平穏に一生を終えたことだろう。
兼遠は木曽義仲の養父にして樋口兼光、今井兼平、巴御前の実父である。
義仲挙兵の翌年1181年没と推測される。挙兵後の子どもたちの大活躍を知ることはなかった。またそれはとりもなおさず、彼らの悲劇も知らずに亡くなったことになる。
旗挙蕎麦「源氏」
もちろん史跡ではない。林昌寺のそばにある蕎麦屋で旗挙の看板を掲げている。ここで昼食タイムとなるように見計らってきた。
人気店だが気取ったところがない。店員が
「何にしましょう」
と言いながらお茶をテーブルに置いた。旅行計画を立てているときから、今さっき暖簾をくぐったときもメニューを見たときもまた「ざるそば二段(一人前)」と注文することを決めていた。心の中で復唱までしていた。それなのに口が勝手に言った。
「冷やしたぬきそばください。」
歩き疲れて油物を体が欲していた。旨かった。冷やしたぬき蕎麦なのに蕎麦湯をくれた。次は必ずざる二段を注文する。
手習(てならい)天神
木曽上田村(現新開町)の山河は美しい。ぼんやり眺めていると時間の感覚を失い、今にも叢の陰から次郎(兼光の幼名)を先頭に中原の仲良し兄妹が飛び出してくるような気さえしてくる。
兄妹が学んだとされる天満宮が手習天神として今も手篤く祀(まつ)られている。
この写真を撮っているときまさかに交通機動隊の白バイが旧中山道をやってきた。
やば!もろに逆車線駐車じゃん(;^_^A
白バイが減速した。もともと低速だったのでほとんど停まるようなスピードである。切符を切られないまでも叱られるだろうと思って首をすくめていると、なんとおまわりさんは深々とボクにお辞儀をして通り過ぎて行った。
え?!
えっとぉ…。深く考えるのはやめることにした。
中原兼遠が兄妹だけでなく、領内の子弟に広く教育を普及するために故郷である京の北野天満宮を勧請した。おそらく学舎も整備して子どもたちを学ばせたためにこの名が残っているのだろう。
とりあえず天満宮である。水彩も物書きも数学もスランプに陥ってるボクもたぬきそばのお釣りをすべて賽銭箱に投入して全力お祈りをした。ご利益のあらんことを…。
中原兼遠屋敷跡
この旅の最後の目的地を案内する標識が天神さまの脇にあった。550mか。脊柱管狭窄症患者にはけっこうあるな。
その前に旧道を挟んで手習天神の向かいにある公民館に「義仲桜」「巴松」と大書された気になる看板が立っていたので車を公民館に乗り入れた。
田舎の公民館というのは平日の昼間に人がいることはめったにない。
こちらが桜と松の解説。
義仲が丸子(まりこ)依田(よだ)城に滞在中、先勝祈願した岩谷堂(いわやどう)観音…の境内に植わっているエドヒガンザクラ…の接木した苗木をもらい受けて植えた…のが義仲桜。かなり義仲との関係は希薄なようだ。
巴が尼となり91才で没した越中南砺(なんと)福光(ふくみつ)にある巴塚に植えられている樹齢750年の一本松の実生の苗木をもらって植えた…のが巴松。義仲桜よりは多少マシな感じはするが樹齢750年では少々計算が合わない。とりあえず南砺市には「義仲・巴ら勇士を讃える会」が存在するらしい。
この写真の右端にちらりと写っている数人の団体。それを元気そうな老人が引率しながら何やら説明している。
大急ぎで逃げようとしたが時すでに遅し。目ざとくボクを見つけたご老体にあっさりと捕まってしまった。果たして彼は義仲桜と巴松を植えられた町組区老人クラブ「福禄寿会」の方(おそらく会長)であった。こうなればボクも潔い。もともと礼儀は正しく、いいカッコしいなのである。たっぷりとご老体から桜と松の由来を拝聴するにやぶさかでない。
会長の話が兼遠の説明に移るところでたまらずに「実はその屋敷跡を訪ねてきた」と話の腰を折らせてもらった。すると、
「車はここに置いていきなさい。」
向こうには置く場所がないから…と言って、巴松の脇の畦道を行く道を教えてくれた。いや結構ですとはまさかに言えない。ボクは素直にNBに幌を掛け、畦道を歩き始めた。
「赤い小屋の向こうにある橋を渡りなさい。」
ご老体のおっしゃっていた橋は中央西線の跨線橋で車は通れない。なるほど彼の言っていたことは正しかった。この1本道をNBロードスターで入ってきたら、置く場所に困るばかりかバックで旧道まで戻らねばならなかっただろう。
おまけに橋の上まで行くと会長がボクを待ってくれていて、さらにそこから先の道を教えてくれた。
集落…と言ってもほぼ民家の庭の中のようなところに標識が立っている。そしてどちらに行っても畦道を100m進む必要がある。
木曽義仲は木曽の生まれではない。幼名を駒王丸。父・源義賢(よしかた)の屋敷があった武蔵国嵐山(らんざん、現在の埼玉県比企(ひき)郡嵐山町)の大蔵(おおくら)に生まれた。義賢が甥の源義平(よしひら)に討たれた大蔵合戦時はわずかに満1才半。義平によって殺害命令の出ていた駒王丸(こまおうまる)とその母小枝(さえ)を助けたのは小枝の従兄にあたる畠山庄司(はたけやましょうのじ)重能(しげよし、重忠の父)と斎藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)である。
彼らが木曽の中原兼遠を頼ったのは駒王丸の乳母が兼遠の正室千鶴(せんつる)御前だったからだと言われている。兼遠は16歳のときに父中原広季(なかはらのひろすえ)とともに武蔵国に下向して土地の豪族児玉貞近(さだちか)の娘千鶴を娶った。信濃の権守に任じられたあとも武蔵国には千鶴を通して縁者が多かったと思われる。
斎藤実盛と小枝、駒王丸の一行は碓氷峠を越え海野に入る。海野(うんの)の豪族海野幸親(ゆきちか)が兼遠の兄だったので逃避行の便宜を図ってもらえたのだろう。
海野から平家の勢力圏だった上田、善光寺を避けて南下し、丸子(まりこ)から和田峠を越えて下諏訪、そして塩尻に達し、兼遠が国府(松本市*)に出仕中だったため、今井にある兼遠の下屋敷に入った。
(この部分はすべて現在の地名で記してある。*信濃国府があった場所は上田市が有力だが松本市深志(ふかし)にあったとする説もある。もしくは兼遠が権守の頃は深志にあり、その後上田に移転したという可能性もある。)
大蔵合戦翌年に勃発した保元(ほうげん)の乱に危機感を覚えた兼遠がより安全な木曽上田に母子を連れてきたと思われる。義仲(駒王丸)は以来25年間、兼遠に庇護されて育った。
出典は調べきれなかったが、今井兼平が1152年生まれであることは文献にあるらしい。1154年に生まれた義仲の2才年長である。兄である樋口兼光はさらにいくらか年かさ。義仲が3才で木曽に来た翌年に生まれた巴は4才年下と言われているが、義仲3才というのは数え年であると思われる。従って巴は3才違いの義妹であろう。4人は本当の兄妹のようにこの美しい自然の中で仲義く育った。
平家の顔色を伺いながら権守の任に就いていた中原兼遠自身、まさかにその仲良し兄妹が平家の政権を倒して京から駆逐するとは夢にも思わなかっただろう。
すべては850年の時の彼方…
木曽川とその二つの支流に囲まれたこの台地には城のごとき堅牢な中三権守館があった。それも今は静かな田園風景の中に埋もれている。
ちょうど屋敷跡の集落に配達に来た生協スタッフに「中原という家が残っていないか」訪ねたが若者は中原兼遠自体を知らなかった。
動画にはボクがご老体の案内を伺うシーンと、逆に蘊蓄ジジイよろしく若者に語っている会話が収録されていて面白い(…と思う)。
動画3分8秒