大垣散歩
旅の二日目は予報通りの土砂降りとなった。基本的に車泊を旨とするボクたちの旅だが,こんな日は町のビジネスホテルに泊まって,居酒屋に繰り出すのを楽しみとしている。名古屋から近江に向かう車内で行く手のルート沿いにホテルを検索する。
宿のネット予約には功罪がある。確かに便利だが電話予約はしづらくなっている。電話だと料金が5割増しになるところもある。だがネットで見る情報と実際とは違う。ボクは設備や新しさはほとんど問題にしない。知りたいのは清潔さと…人だ。旅先で嫌な思いはしたくない。だから宿には悪いけれど電話をかけるのである。その応答でおおよその検討はつく。もっとも今は本当に電話で確認する用がある。自転車を積んだ車をどう停めるか,下ろす場合,自転車を置ける場所はあるか。この面倒な相談に丁寧に応えてくれる宿は一夜の思い出を託すに足る。
西暦1600(慶長5)年9月14日,大垣城内で行われた軍議において,西軍の諸将は野戦を決議し,石田三成,島津義弘,小西行長,宇喜多秀家ら西軍主力30,700人が夜陰,城の外曲輪を焼き払って関ヶ原へ出陣した。
いくつかヒットしていたホテルの所在地から迷わず大垣駅前を選んだのは他でもない,ボクは大垣と聞いただけで,血湧き肉躍る関ケ原のシーンを連想するからである。
いかにもダサい名前のイマドキのビジネスホテル。契約駐車場は有料で,場所は遠く,しかも立体なので自転車ごとは停められない。雨の中でホテルの玄関脇に下ろす必要がある。決していい条件ではないが,親切な電話の応対が決め手になってこのホテルにした。
鍵を使わないので明朝,チェックアウトの必要はないとフロントで説明された。なるほど理にはかなっているが,この手の合理化はなかなか昭和人間を戸惑わせる。
鍵の解錠にはカードすら使わない。入力するナンバーをプリントアウトした紙片を渡されるだけである。深く頷く。おそらくは若い人の柔軟な発想の転換だろう。古来,テクノロジーの進歩は名もなき技師の発案でもたらされていく。
大垣の夜
駅前の繁華街に向かうのを見計らったように雨がやんでくれた。
こちらも予約電話の応対で選んだ居酒屋さん。チェーン店は避けることにしている。
スタッフは全員が20代前半ではないかと思われるほど若い。こちらが気恥ずかしくなる過剰なおもてなしの演出は「外し」過ぎていてむしろ心地よい。筋肉隆々たるスラッガーの全力空振り三振を見る爽快感とでも言おうか。
目の前で焼きあがるのは鯖の浜焼き。ボクたちには少々ボリュームがありすぎると尻込みしたが,店の看板メニューを一生懸命に推す女の子の店員がリリのバイト姿に重なって押し切られた。
酒は「長良川 超辛口+20」という銘柄。すっきりとした飲み口は淡泊な辛口を好むボクたちには絶品だった。
これまた空振り三振の大げさな見送りを背に受けて店を出た。千鳥足で駅を散策する。
東海道本線の快速が停車し,樽見線の始発駅でもある。養老鉄道はいわゆるスイッチバックで桑名方面と揖斐方面を中継している。道路はもちろん,鉄道においても大垣は戦国時代と変わらずに交通要衝であり続けている。
部屋に帰ってすることがない。以前なら宿を取った日は携帯端末やカメラの充電に忙しかったものだが,ポータブル電源を車に積むようになってその必要もない。部屋はしっかりと狭い。小ぶりなダブルベッドの頭上にシングルベッドがひとつ横たわっている。見た目は鬱陶しいが,寝転んでみるとそれほど目障りでもない。以前にもこんな作りの部屋に泊まったことがある。フランス南部の田舎町のモーテルだった。
→ピレネー紀行16「モーテル」
輪をかけて狭いユニットバスにお湯を張り,女性宿泊客限定サービスの入浴剤を投入して二人で膝を抱えるようにして湯舟に浸かった。ワンルームのアパートで暮らした新婚時代を思い出す。
むすびの地
超夜型の教室の仕事を辞めて一週間も経たないうちに,ボクは朝の早いふつうの年寄りになった。旅先でも薄暗いうちに目を覚ます。眩しい朝日を浴びながら6時前にサイクリング散歩をスタートさせた。
水門川を南下する。
1887年に再建された木造の高燈籠が残っている。大垣は陸路だけでなく水路でも交通要衝であった。揖斐川を利用した舟運が東山道の大垣宿と東海道の桑名とを結んでいた。さぞや運送業者や旅人で賑わったことだろう。
水門川は大垣城の堀の一部だが,川湊として整備された運河の跡でもある。
川沿いに句碑がいくつも建っている。
大垣は「おくのほそ道結びの地」である。1689(元禄2)年,陰暦3月27日(5月16日),江戸深川を出発した松尾芭蕉(当時46歳)と曾良は東北,北陸を漫遊し,同年8月21日(10月4日)に大垣に到着した。「おくのほそ道」はこの156日間の旅行記だ。
露通も此みなとまで出むかひて,みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば,曾良も伊勢より来り合,越人も馬をとばせて如行が家に入集る。前川子・荊口父子,其外したしき人々日夜とぶらひて,蘇生のものにあふがごとく且悦び,且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに,長月六日になれば,伊勢の遷宮おがまんと,又舟にのりて,
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
奥の細道『大垣』
ふたみは「二見」の掛詞で行く先の伊勢を示し,わかれは「別れ」に掛かっている。惜しみつつ別れた相手とは他ならぬ大垣の人たちである。
本文中にある如行は大垣藩士。通称源太夫。大垣の蕉門のリーダーである。滞在する如行の家にみなが集まったとある。前川子・荊口父子ともに蕉門で大垣藩士。
芭蕉を見送る姿が銅像になっている谷木因は芭蕉と同じ北村季吟の門下である。
このとき芭蕉が大垣に滞在したのは16日間。酒田の不玉邸延べ8日,曾良が病に倒れた山中温泉の8日と比べても破格の日数である。芭蕉にとって大垣が特別な地であったことが伺われる。
「おくのほそ道」はここ大垣船町川湊で門人たちに見送られて終わる。
大垣城
維新廃城令の際,破却を免れた大垣城天守は1936年に国宝指定されたが残念ながら1945年の空襲で焼けてしまった。現在は鉄筋コンクリート製の観光用天守が建っている。
美濃,尾張,近江の境にあたるこの立地である。戦国時代は織田氏と斎藤氏による激しい争奪戦が繰り広げられた。秀吉の政権下で子飼いの武将一柳直末が治め,次いで土岐家の家臣だった地元生え抜きの伊藤氏が城主となった。
関ケ原の戦いで西軍の本拠となったのは伊藤盛宗が西軍に属したためである。
大垣城には家臣たちの家族もともに立てこもった。石田三成の家臣山田去暦の娘が少女時代の城内の様子を尼になった晩年に語った筆録が「おあむ物語」として残っている。
彼女たち女性の仕事は鉄砲玉作り。そして味方が討ち取った敵将の首を並べ,手柄の価値を維持するために毎日その鉄漿(おはぐろ)を塗り直す作業だったと記されている。彼女は目の前で弟を敵の銃弾で喪い,落城の際は石垣に梯子を架けて脱出した。
朝食バイキングの時間が6時半から7時半までだったので朝のサイクリングはここまでにしてホテルに帰る。自転車を停めて直接玄関から朝食会場に入ったが何のチェックもなかった。
ドレミが珍しく和な朝食をアレンジしてきた。大垣玉子というネーミングに抗えず,どうしても玉子かけご飯が食べたくなったそうだ。今日はこのあと長浜に移動してサイクリングの本番に入る予定である。