鎌倉殿の13人予習シリーズ/10.畠山重忠
時は寿永3年2月7日,所は摂津国福原一之谷。鵯越えした源氏の搦手隊は,源義経の命令一下,逆落としに平氏本陣を奇襲した。畠山重忠は怪我をさせまいと愛馬三日月を背中に担いで崖を下った。三日月は主人の愛情に応え,勇躍,獅子奮迅の活躍をする。古今東西,名騎士名馬は多けれど,これほどのヒーローが他にいるだろうか。
奇襲に先立って、義経は馬2頭を崖から突き落とし,1頭が助かるのを見て逆落としを決意する。馬を道具としか見ていない義経と重忠とは対照的である。ともに史実かどうか不明だが、逸話の成り立ちには実際の性格が反映するように思う。二人はそれぞれ別の場面でも、この逸話が裏付けるような行動を取っている。
御岳山頂、武蔵御嶽神社神社境内に建つ畠山重忠像は人間国宝北村西望の作である。銅像は他にも各地に大小あまた、錦絵,小説など重忠は超人気武将である。かく言うボクも御嶽神社でこの像を見て以来、すっかり魅了されている。
畠山重忠…秩父平氏の一族で所領は現在の埼玉県深谷市,嵐山に居館があった。武勇と誠実で思いやりのある人柄から「坂東武士の鑑」と称えられる。巴御前との一騎打ちを制し,川で溺れた同僚の馬は川原に投げ上げて助け,静の舞では銅拍子を打って伴奏を務めている。
没年は1205年。二俣川(現在の横浜市旭区)の戦いで非業の最期を遂げる。享年42才。かねがね機会あらばその古戦場を訪ねたいと思っていた。
二俣川の中心街を北に外れた住宅街に大きなパーキングを見つけて出発点とする。
走り出していきなりたいへんな坂道に見舞われた。ひいひいとペダルを漕ぎながら思うには,これはもっともなことであった。一帯の地名は「鶴ヶ峰」である。「山」とか「丘」ではなく「峰」である。
峰から一気に帷子川の段丘まで下る。そもそも帷子という名の由来からして「片側は平,もう片側は山」の「かたひら」なのだそうだ。
六ツ塚
六ツ塚は地元の人たちが畠山重忠主従の遺骸を葬った場所と伝わる。
ボクらが自転車の停め場所に迷っていると、隣の雑木林から竹箒を持った初老の男性が現れ,
「林の中に停めたらいい。」
と案内してくれた。
その雑木林の中に重忠公は仏の姿で立っていた。竹箒の男性は林の落ち葉を掃いている。日曜の朝,あきらかにボランティアの行いである。この地には重忠主従をねんごろに葬った「地元の人」の心が800年の時を越えて伝わっている。
ボクらが雑木林にある塚を巡り終わった頃合いを見はからって男性が再び竹箒の手を止めた。
「この大きいのが親分の墓,手下の墓はあっちのお堂の奥にもある。」
言に従って寺の庭に進むと確かに小さな塚がいくつもある。
「六つ以上ありそうね。」
いつものように看板の熟読を終えたドレミが言う。鶴ヶ峰に全滅した主従は134名,他にも命を落とした兵士,小者など多数であったろう。その遺骸を集めたとすれば塚はもっとあったはずだ。他所の鎌倉時代の遺跡から見れば,こうして中心部の塚がそのまま残っているだけでも奇跡的である。
「うふふ。親分と手下なのか。」
…とボクは思う。坂東武者と言う。また関東はいわゆる侠客も多く輩出している。案外,豪族と任侠人とは近い人種なのかもしれない。実業を尊ぶ民に対して,それを支配する豪族たちは武とともに仁義を重んじるがゆえに尊崇され慕われたのではないだろうか。そう考えると名を惜しんだ重忠主従がこの戦場で取った行動が少し理解できてきた。
掃除の邪魔をこれ以上せぬよう竹箒の音に向かって大きな声で謝辞を述べて六ツ塚を後にした。
二俣川古戦場
さらに段丘を下り保土ヶ谷バイパスを横切る。
バイパスから50メートルほど南にある鶴ヶ峰駅入口という大きな交差点、その南西の角に重忠終焉の地碑が立つ。
鶴ヶ峰を下った重忠軍134騎,総勢500人足らずが帷子川の北岸に布陣したのは1205年6月22日の午後,対する北条義時軍は南岸の万騎ケ原に3000騎,総勢一万余(一説には数万とも言われる)が展開した。
義時は戦闘が始まるまで,重忠が鎌倉に謀反を企て大軍勢を率いていると信じていたと言われるが嘘だろう。ありえない。
そもそも畠山重忠に謀反の事実はない。執権北条時政(義時の父)によるでっちあげである。さまざまな権力闘争が絡み合った果てのことだが、たたけば埃の出まくる時政にとっては、融通の利かない重忠が邪魔者となっていた。鎌倉に異変あり参集せよとの偽の報を重忠に入れると、疑うこともなく、いざ鎌倉とばかり3日前に嵐山(埼玉県)の居館を発ち,ここまで急行して来た。これを挙兵の軍に仕立ててしまおうとの北条側の魂胆である。
異変と言えばこの日の朝に確かにあった。鎌倉にいた重忠の嫡男重保が誅殺されている。由比ガ浜で謀反人ありとの報に,近習の者だけを連れて浜に急いだところが北条時政の命で待ち伏せしていた三浦義村らに殺害された。謀反人を倒しに行ってみたら謀反人は自分だったと言う顛末。もちろん冤罪である。
義時は重忠の謀反を信じず,父時政を説得しようとしたが,討伐を主張する牧の方の剣幕についには屈して軍を率いたことになっている。だがこの一連の茶番の裏を政子・義時の姉弟が知らなかったというのはどう見ても説得力に欠ける。むしろ見て見ぬふりをして利用したと考えるのが自然だろう。
一方,二俣川で嫡男重保の訃報を受けた重忠はようやく自分が謀反人に仕立てられていることに気づいたが,退却せずに山を下って来た。
「ここで退けば,謀反の汚名を認めることになるので潔く戦って散ろう。」
とて、主従は20数倍の敵に挑んだ。なんとも熱き親分と手下たちであったことである。
200mほど上流に矢畑という場所がある。鎌倉方の射る矢の数が多すぎて,川原にまるで黍の畑のように無数の矢が立ったと言われる。重忠が矢を受けて絶命する寸前に「我が心正かればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と突き立てた矢が竹林になったという。「さかさ矢竹」の看板による。潔白を証明した竹林は枯れてしまって,この場の竹は重忠没後800年を記念して植樹されたものだそうだ。
帷子川は現在,交差点の下を暗渠で抜けているので,道を東南の角に渡れば,そこはもう対岸,北条方の陣となる。旭区役所駐車場の隅に「首洗い井戸」の標柱が立つ。重忠の首級を清めた場所だと言われる。
かつて河原に大きな穴があり水が涌いていたと表札にある。さてさて,すぐそばに帷子川の清流がとうとうとあるのになぜ井戸で血を洗ったのだろうか…誰も突っ込む人はいないのでボクもやめておく。鎧の渡しについては後述する。
ボクがうっかり見逃して通り過ぎたお堂を,後続のドレミが目ざとく見つけて呼び止めた。
井戸から数十メートル,義時が実検ののちに首が葬られた場所だと言われる。文献やガイドにはここを正式な墓としているものが多い。
重忠ゆかりの地はどこを訪ねてもきれいに清掃され,気持ちよく草は抜かれて花が植えられたり,生花が献じられたりしている。鎌倉にある他の登場人物たちの史跡とは対照的だ。
菊の前
古戦場を後に,来た道より一筋東の道を北上する。この傾斜はもう山登りというレベルである。次なる目的地はどうやら鶴ヶ峰の頂上にあるらしい。
この坂を登りながら少々,畠山重忠一家について整理する。正室は北条時政の娘でその子が嫡男重保である。つまり時政が命じて由比ガ浜に誅殺したのは彼自身の実の孫ということになる。もはや北条の人々,人ではない。
重忠にはもともと本妻がいる。それが13人衆の一人足立還元の娘菊の前。足立還元は武蔵野国足立郡の豪族出身で幕府では公文所寄人を務めた。菊の前の子重秀は北条家に遠慮して重保にその座を譲り,年上の次男となっていた。
青息吐息,ようやく鶴ヶ峰の頂上らしき地に着いた。
ボクたちは川原から登ってきただけだが,埼玉の嵐山から早駕籠に乗ると,この場所までいかほどの時間がかかるのだろうか。試しに地図アプリを使って調べると,徒歩16時間,自転車で6時間と表示された。夫の重忠が鎌倉方の大軍と交戦に臨むとの報を聞いた菊の前は戦場に急行した。ちょうど首洗い井戸のあった場所の標柱に「鎧の渡し」とあったように,二俣川には鎌倉古道が通っている。府中から所沢,川越へと当時すでに街道が整備されていた。重忠軍も義時軍もその鎌倉街道を使ってこの地に相まみえている。
戦闘の翌23日昼には義時の大軍が鎌倉に凱旋している。旧暦22日は新暦で7月10日に当たり夏至から2週間ほどで日はとても長い。埼玉の日の出は4時30分,横浜の日の入りは17時頃。22日の夜に急報を受けた菊の前が、23日払暁に嵐山を発ったとすれば,あるいは夕暮れの頃にはこの峰から二俣川を見下ろしたことだろう。
麓に累々と広がる屍は、彼女が愛しみ育んだ家族や家臣たちであった。畠山軍の全滅をその目で確かめた菊の前は駕籠に戻って自害する。従者たちが、美しき貴人の悲しい姿を目にすることを憚ったのであろう、遺骸は駕籠ごとこの地に埋葬された。墓が駕籠塚と呼ばれる所以である。ボクは道順を変えたために二度も山を登るコースになるのを覚悟で,連載10回に及んだ長い史跡探訪の最後の訪問地にここを選んだ。
長男の年齢から推定すると享年38才。その長男重秀は夫とともに大軍と戦い足下の河原に散っていた。享年23才。菊の前が最期のとき,心に去来したのは親子三人で暮らしていた愉しき日々の記憶だっただろうか。
夫と子が最期を遂げた同じこの地に駆けつけて二人の後を追うこと1日。菊の前の心のうちは幸福に満たされていたのではないかと思いたい。
誰が手入れするのだろう,墓前には今朝活けられたと思しき花と水が献じられている。
鶴ヶ峰からは相模の台地の向こうに富士の山も遠望された。
北条義時と政子のブラック姉弟は,自ら手を下したこの冤罪事件の責任者として父時政を追放し,関係者を粛清した。被害者となった畠山氏には同情するふりをしながら,生き残った重忠と菊の前の子を殺害し,家督や所領は政子の縁者に分け与えた。
菊の前についてインターネット上の記述を調べているうちに興味深い文献に出会った。浅草にある吾妻橋法華寺のご住職石川修道氏の著書「宗祖の母・梅菊「畠山重忠有縁説」の一考察」である。
そのご考察によれば,日蓮宗の開祖日蓮の生母梅菊は重忠と菊の前の娘である。
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往復の山越えにふらふらになってパーキングに戻った。隣のスーパーでトイレを借りるついでに夕飯の買い物をすると,なんと駐車料金がサービスになったので,ゲンキンにもたちまち元気を取り戻した。
古戦場の公園で食べようとドレミが作ってきたお弁当は,風が強かったので持ち帰り,パーキングの車の中で広げた。いい旅だった。
あとがき
三浦から清水町,江間,韮山,修善寺,伊東,鎌倉そして二俣川と史跡探訪したサイクリングはとても楽しかった。愛犬を亡くしたボクたちに,再び出かけるための理由を与えてくれた。
明日からいよいよ大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まる。予習の旅によってもボクの北条氏に対する印象は変わらない。むしろ悪くなった。文中,途中からは政子と義時をブラック姉弟とまで呼ぶ始末だった。三谷さんは義時を「ダーク」と表現されている。小栗さんは,番宣を兼ねての番組に出演されたとき,義時役でご自分の人気が下がるとジョークをおっしゃっていた。さてさて,血で血を洗う登場人物たちの権力闘争の歴史がいったいどのように描かれているのだろう。見ものである。