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File003/道祖神盗みの真実
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旧中山道クロスバイク行その1のあらすじ
朝、妻を職場に送ったシュウは平出遺跡駐車場を出発。JR中央本線みどり湖駅の自転車置き場にクロスバイクを置いた。それから車でJR中央西線洗馬駅に行き、駐車場に車を置いて中央線に乗車し、塩尻で乗り換えてみどり湖駅に戻った。クロスバイクにまたがり、塩尻から洗馬まで旧中山道の旅が始まる!
みどり湖駅事件/旧中山道クロスバイク行その1はこちら
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いきなり試練の上り坂。全体として洗馬までずっと緩やかな下り坂のはずだが、最初に訪ねたい永井坂までは少し塩尻峠方面に戻らなければならない。
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国道153号線を渡るとさらなる上り坂が待っていた。
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いちばん軽いギアで何とか登ってきたがここでギブアップ。残りは自転車を下りて引いた。年齢を自覚した賢明な判断である。
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喘ぎながら振り返ると桔梗ヶ原(塩尻盆地)が一望できる。ここが本日の最高地点となる。
柿沢の首塚・胴塚
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案内板を要約すると、1548(天文17)年7月19日甲斐武田信玄軍と松本城主小笠原長時軍が当地(柿沢永井坂)において交戦、数時間に及ぶ激戦の末、小笠原軍は敗れ退却。武田軍は論功行賞のため首実検を行い、その遺体を放置したまま引き上げた。柿沢村の人たちは戦死者を哀れみ埋葬して首塚、胴塚とした。1935(昭和10)年、村人の有志が、荒れ果てていた塚に碑を建立し改めて供養をしたとある。
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武田軍は侵略者であるから塩尻の農民たちが小笠原びいきなのは道理であるが、戦死者を哀れんで埋葬したというのはいささか美談に過ぎよう。敵であろうと小笠原方であろうと、自分たちの耕地で戦争されては農民たちにとって迷惑この上ない。累々たる死骸も衛生上、放置するわけにはいかないので一か所に集め穴を掘って埋めたのだろう。
天文17年と言えば信玄は2月に北信濃上田原にて村上義清と戦って、初の大敗を喫し、24将で四天王にも数えられる甘利虎泰、板垣信方などの重臣と多くの将兵を失ったばかりである。それにも拘わらず夏にはもう中信の塩尻峠を越えるとはこれもまた懲りない男たちである。おまけに松本小笠原家とは同じ甲斐源氏の一族である。話し合うという余地はないのだろうか。
柿沢双体道祖神
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首塚から数十メートル北上して、永井(長井)坂の半ば付近に出る。いよいよここから旧中山道に入る。柿沢の道祖神とあるがどこが顔なのか足なのか判然としないほど風化している。
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「御縁想」とは中信の風習で要するに道祖神盗みのことである。単に道祖神を奪うだけでなく、その村の豊かさにあやかるという呪術的意味合いもある。柿沢村は他村からみて何らかにおいて豊かであったことがうかがえる。
「とりかえした」と言うと穏やかでない情景を想像するが実はそうではない。「御縁想」は祭事のひとつで、言わば若者たちの遊びだった。隣村の若者たちが徒党を組んで道祖神を盗んで隠す。盗まれた村の若者たちがこれも徒党を組んで取り返しに行く。…が、これは予めどちらも相談済の狼藉である。取り返しに行った者たちは隣村で大いに飲み食いの歓待を受ける。そして「帯代」と呼ばれる対価を得て道祖神を譲る。または取り返してきて今度は逆に隣村から来る若者たちを歓待するというわけである。
「帯代」という名から得心された方もおられよう。朝日村教育委員会のHPに依れば「御縁想」は「嫁入り」とも呼ばれた。村の娘を嫁に取られた若者たちが新郎の村に報復に出かけるあの風習である。「嫁入り」でも押し掛けた若者たちは飲み食いの接待を受ける。三日後には新婦が新郎を伴って里帰りする。これを「三つ目」といい道祖神盗みでも同じように呼ばれたらしい。
要するに酒は飲みたいが婚礼がそうそう頻繁にあるわけではない。その代わりに道祖神をやり取りしての宴会というのが「御縁想」の真相であろう。おそらくは他村の若者との「出会い」の場でもあったと想像される。小さな村ごとで婚姻を繰り返すことは遺伝的に望ましくないことを思えば、きわめて科学な真実につながる伝統行事であったと言える。
村の鎮守の神事でも寺の縁日でも宴会。60日に一度は庚申で大宴会。「嫁入り」「御縁想」と言っては隣村と交流宴会…江戸時代の後半、少なくとも中信の農村のなんと豊かでおおらかだったことだろう。のっぺらぼうの道祖神を拝みながら思わず笑みがこぼれた。
「その3/旭観音堂、その名の由来はやっぱり…」に続く