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鎌倉殿の13人予習シリーズ/7.東林寺

修善寺の東,冷川から伊東に至るには箱根連山の南端にあたる大平山を越えなければならない。八重姫と五人の侍女たちは柏峠を越えて韮山に向かったと考えられる。一行が踏破した旧柏峠は標高480m,命を削るような旅路だったに違いない。現在の伊東西伊豆線は1kmほど南,標高385mほどの渓流沿いに開削されている。

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伊東市営大川橋駐車場。驚くほど駐車料金が安いのに係員が二人も詰めていてセキュリティは高い。今にも降りだしそうな空だが空気は乾燥しているので予定通り自転車を下ろした。

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いきなり135号を南に登る。標高差52m。

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伝伊東祐親の墓に到着。

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伊東氏の三代目にあたる。

富士川の戦いで平家軍に合流しようとして頼朝軍に捕らえられた。娘婿で鎌倉殿の13人の一人である三浦義澄の取りなしで,死罪になるところを赦されたがそれを潔しとせず自害して果てた。

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三笠山さして満もれる免くみをは

ゆくすゑまても猶たのまなん 祐親

満もれる免くみ(恵)をば~猶(なお)恃まなん…「恵」が伊東荘を指しているとすれば,「東伊豆はワシのもんじゃい!文句あるか!?」…との意に取れなくもない。

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一気に50mの落差を西側の谷に下る。墓はやめておけばよかったと後悔する。なかなか事前に見る地図では高低差を実感できない。この谷の上流にある奥野という森で伊東祐親が巻狩り(軍事演習を兼ねた狩り)を主催した。余興の相撲大会を制したのが祐親の長男河津三郎祐泰であった。

相撲や柔道に河津掛という技がある。足を掛けにきた相手に対し,逆にその足を跳ね上げて体を預け,仰向けに倒れる逆転技である。相撲大会で河津祐泰がこの技を使って勝利したことから名づけられた。

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東林寺

奥野の巻狩りからの帰り道,この場所で河津祐泰は従兄にあたり義兄でもある工藤祐経の放った刺客によって暗殺された。工藤祐経は京都で平重盛に仕え,鼓の名手として名高く,後に静御前が鶴岡八幡宮での舞では畠山重忠とともに伴奏を務めている。

さらに殺された河津祐泰の遺児たちは母の再婚先,梅林で名高い小田原の曽我氏の元に引き取られ,長じて1193年に今度は頼朝の催した裾野の巻狩りで,工藤祐経を討ち果たした。曽我の仇討である。

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東林寺は河津祐泰を弔うために伊東祐親が創建した。境内には祐泰の墓や日本相撲協会によって河津掛を讃える相撲碑が建っている。

スポーツ,音楽の一流人たちだった一族が憎しみの連鎖のような殺し合いをした原因は伊東祐親にある。祐親は父の急逝によって祖父が行った相続配分に不満を持ち,工藤祐経に与えられた伊東荘を横領支配した上に実子である祐経の妻万劫御前を土肥に再嫁させてしまった。工藤祐経が自らの後見人としてこの叔父を信頼し,京都に留学している間の出来事である。

世にこれほど迷惑なオヤジもなかなか稀有である。伊東には彼の銅像が建っている。謎である。幼い孫に手をかけ,娘を自殺に追い込む。自分への恨みで息子は殺され,孫たち曾我兄弟はその復讐に若き命を散らした。仇討は仕組まれたもので兄弟は御家人たちの勢力争いに利用されていたことは,その後源範頼はじめ多くの御家人とその一族が粛清されていることから確証が高い。一連の政争に勝利したのは黒幕である北条時政。その妻…つまり政子・義時ブラック姉弟の母もおそらく祐親の娘である。つまり頼朝は,祐親の娘(八重姫)が最初の妻で孫(政子)を正妻とした。八重姫は姪に夫を奪われて自害したことになる。いやはや考えるほどに心が沈む。

その憂鬱を癒してくれるものが東林寺の本堂にあった。参拝者にマスクを施すという細やかな配慮…実際に訪ねた者以外はそれを知る由もない。

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「日日是好日」とは禅の古則「碧巖録」第六則にある公案である。東林寺は真言宗の寺として開かれたが,1538(天文7)年に曹洞宗に改宗された。

参拝者のために塩飴が置かれていた三浦の福寿寺,韮山の眞珠院,そしてここ伊東の東林寺…この秋,予習旅の中、曹洞宗寺院の佇まいに何度も感動せしめられた。

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境内に設えられたベンチでドレミの用意してきたおやつを食べながらボクは来年にでも「正法眼蔵」を読んでみようかとぼんやりと考えていたが,帰宅してから調べてみると「正法眼蔵」は95巻あり,とても素人の読めるシロモノではなかった。

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東林寺から出て市内中心部に戻る途中で葛見神社という社に立ち寄った。

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奥にある巨大な樟は国の天然記念物。神社に樟は定番だが,この大クスは桁外れの大きさである。

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そして三浦半島に続き,またしてもグーグルマップが現在地を誤表示したためにたいへんな回り道を強いられた。再び奥野方面への坂道を登ってしまったのだ。雲が厚いために太陽の位置が全く分からなかった。先行して坂の途中であえいでいたドレミが

「海が見える。」

と指さした方角でようやく間違いに気付いた。

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距離は短いが45m近い標高差の回り道となった。ふくらはぎが終わり始めた。

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ようやく伊東大川沿いの遊歩道に出る。

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伊豆遠征最後の目的地である音無神社に到着。

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伊東祐親の娘八重姫と流人源頼朝が逢瀬を重ねたという…ここが音無の森である。

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境内には二人を祀った小さな祠がある。

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大川の対岸がひぐらしの森。頼朝が音無の密会のために日没を待ったことからその名がある。

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美しい絵巻が展示されている。少々顔のデッサンに問題があると思ったら,伊東高校美術部の作とキャプションがあった。高校生だとすればこれはかなりの力作である。八重姫の想いは現代の高校生の心をも動かしたと思われる。

ここまで三浦半島から伊豆にかけて来年の大河ドラマ登場人物のゆかりの地を訪ねてきた。その中でただひとり八重姫だけが現代人にも理解可能な心を持っているように思える。

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この地にて伊豆の旅を終える。

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川沿いの酒屋に立ち寄った。愛想のよいおかみさんの説明によれば伊東にも熱海,河津にも酒蔵がなく,従って地酒はない。地物として売られているのは沼津の酒造のOEMだそうだ。その中で純米酒でいちばん高いものを選んだ。ボクは甘い吟醸酒が苦手なのである。

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伊東の史跡を巡る間,天気がもってくれた。駐車場の車に自転車を載せてからランチに出かけた。

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銀座元町の目抜き通りがシャッター街となっている。伊東には父の会社が保養所契約していた宿があったので,何度か海水浴に来て泊まった。夜,父に連れられて来た元町の商店街は夢のようなきらびやかさに包まれていて,子ども心にもうきうきした記憶が残っている。

今は,バイパスに広がるNYCの猿真似の東京のそのまた猿真似らしき薄っぺらい町並みに,大手や外資のチェーン店が立ち並んでいる。伊東に限ったことではないが,それを選んでいるのは観光客ではなく地元の住人である。

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50年前に新宿のコーヒー店が元町に出した喫茶店がシャッター街の端で元気に営業していた。

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コーヒーがまだアラブの偉いお坊さんのもたらした魔法の飲み物だったころの風景である。

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新宿にはお茶やコーヒー豆を売る店しかない。この喫茶店は伊東にしかない。

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真鶴道路あたりで激しい雨に遭ったが,夕方には東京に戻ることができた。

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旅の荷物を片付け,清水町の柿,駿河湾のイカ,修善寺のミツバをカルパッチョに仕立て,沼津OEMの地酒を飲った。

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