はたらいて10ヶ月
自分のむかしの日記をよみなおしていたら、ちょうど就職先をきめるまえの悩みみたいなのが書かれていて、又吉の本よんでたなとおもいだした。ジャカルタにむかう飛行機の途中だったと思う。「誘われたベンチャーに入ることはひどく覚悟のいることのように思えてくる」そう書いていた1年前の7月。ちょうどカフェがしまるまであと30分で、振り返ってみたらいいものが書けるかもしれない。
いまの仕事がたのしいなと思うように、というのは例えば日曜日が憂鬱じゃなかったり、月曜日が仕事したくない、、だったり毎日がおわると達成感より徒労感と安心感が勝ったり、と思っていたのが変わってきたのは、サンフランシスコにいった2週間からだった。だからはたらいて9ヶ月が経ってからということになる。それまではポイントポイントでもちろん楽しいときもあったのだけど、、じぶんが創造的なしごとをしているときのあの内側からあふれるような楽しい身軽な感覚はなくて、それが大事なんだけどなと思ってむかしの友だちに相談したりしていた。「ベッドから出るときに仕事いきたくないのはわたしもだよ」と言っていて妙に納得した記憶がある。
たまたまオフィスにのこっていたときに、入社したときからいた上司からフィードバックをもらう機会があって、スポンジ!と言われた。なにせ知らなさすぎた研究開発とスタートアップの世界で、きくこと見ること自分で話すことでさえもほとんどが初めてのことだったから、責任感だけが不均衡につよくてそれに応えられないと分かりながら話し続けることに胃がキリキリと傷んでこんなに口内炎をつくった生活は初めてだった。今も舌の奥が腫れてできものができている。
石田ゆり子さんのエッセイで、「20代は辛かった。できないことは自分が一番よくわかっているのに、できるふりをし続けないといけなかった。」みたいな文章がある。近所の図書館でそれをパラパラとみていて、あーこれだとまた妙に納得して安心した。同時に、これをしばらくは続けないといけないのかと自分がすきな挑戦することとセットで避けては通れないこのきもちと、うまく付き合っていかないとなーとちょっと肝もすわった。「楽をして美しいものはないと思います」こうも書かれていて、うんうんそれもわかるなーといろいろなことを味わって見て通り抜けてきた人たちの、ひとの話を聞くまなざしをおもいだしてまた納得する。だれであっても人の話を聞かせてもらえるときは、何をはなされても包めるブランケットを思って話を聞くことをつづけたい。
分からないけど決断をしないといけない、自分にはできない(と思うのだけど)ことを前に進めないといけない、諦めるのはくやしい、そんなときに役に立つ知恵に最近になってだんだんときづきはじめた。一つは仮に思うこと、わからないなかで決断をすることから逃れられないのはそうで、それでも今はこうだと思っている、で良いから事を進められると、分からないから何もしない、何もしないでい続けると動けなくなる、のループにはまりにくくなることに気づいた。これはエンジニアの人たちや未知を探索する研究者たちから色々とおしえてもらったこと。2つ目は、表現しはじめること。分からないなかで進めなければならないとき、非専門家の自分のおもっていることは本当に必要だろうか?とか、この決断で人を動かしてしまって良いのだろうか、とか思ってしまう。ただそれが続くとしごとが受動的に、だんだん表現そのものもできなくなっていって、これ自分じゃなくてもいいね、に収束していくのでそれはすごくつらい!表現しはじめること、これはフロムの『生きるということ』とキーガン、友だちの日記を読んでいておしえてもらったこと。仮に思って表現しはじめる。これをつづけていきたいなー