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手向ける花もなく
父母の戦争体験記録「あるノートの口述より」
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昭和二十年三月九日の日中は、やや風が強く道路の電線が揺れていたことを記憶しています。 夜になって警戒警報のサイレンが鳴り響き、私の主人は姉に「いつもの通り、近頃は度々だから心配しないように早く寝なさい」と言われて床に入って何時しか眠ってしまいました。 当時、主人は亀戸一丁目に父母と姉一人の四人で、兄は召集で陸軍衛生兵長として満州の陸軍病院に服役中でした。 主人は二階の三畳に一人で寝ていたのですが、その部屋は西側に窓があり、窓から物干し台に出ると本所深川方面が望め、夏には両国の花火がよく見える部屋でした。 私は肩掛け鞄の中から主人の何とものんびりしている様子を見ながら、敵機(ボーイングB29)は既に日本上空にありと言いたかったのですが・・・・。
後で聞いた話によれば、B29は電波探知機を狂わすために、大量の帯状銀紙を上空から撒き散らし、一度は日本上空から去ったと見せかけて、後から極度な低空で日本上空に再侵入したとの事でした。
本人は知らずに眠っておりましたが、事態の急変を知った姉が叩き起こしに来た時は、すでに西の窓は明るく夜空に家々の焼けていく姿が遠くに見えていたのです。 寝起きで意識がはっきりしない状態と恐怖が重なり合って、主人は何も持たず机に置いてあった肩掛け鞄一つを身につけるのがやっとの事でした。 東京の空襲が激しくなってから国の方針で、都内を流れる川の両岸約五十メートルは疎開となって全ての建物は壊されて防空壕が作られていました。 今にして思えば何とも頼りないもので、又、焼夷弾による火災を目的とした攻撃には何の役にも立たず、かえって濠内での窒息死を招く凶器となったことを、後から中学生になって焼け跡の死人整理で知ったのです。
時計は三月十日の零時を回っていました。 主人は姉の指示で道路に近い方の防空壕に押し込められたのです。 この時から家族四人は全く別の行動となりました。 主人の入った防空壕は、近所にあった山田酒店の品物が山のように入っていて、主人を含む総勢四人で一杯でした。 男は六年生の主人一人であとは二人の子供を連れた何処かの叔母さんでした。 淋しさも手伝って時折防空壕から父母姉を案じ、外の様子を見に出入り口の扉を開け首を出す私の主人でしたが、まず川の向こう江東区大島が大狂焰のもと轟音を発し、家々が焼けおちていくこの世の最期とも思えるさま、刻々と近づく火の粉、風速四十メートルにも達する火災特有の強風、乾燥しきった脱水状態から十五メートル先の家々にいとも簡単に飛び移る狂焰、黒い塊となってうごめく修羅場の人々から、私の主人は動物的に自分が助かる事にすべてをかけていったのです。 防空壕は、約一メートルほどの深さに掘った横長の溝に木柱を立てて屋根組みをした上に、土を盛り溝の両側に木製の扉をつけた出入り口を持ったもので、溝と直角方向に爆弾等が落ちた時と艦載機による機銃掃射には、いくらか有効であったであろうと思われるもので、火災に対する処置は全くなされてなく、地面を強風とともに這う狂焰にたちまち扉は焼け飛び、中の人は煙道の中で蒸し焼きに遭うかのように死に追いやられるのです。
私の主人は、この壕の中で数時間にわたる大奮闘の末、やっと一命をとりとめました。 燃えるものはすべて、壕の外に蹴散らし、消火に役立つものは、すべてを利用したのです。 塩、味噌、醤油、酢、日本酒、そして、何よりも命を救ったのは一升瓶に入っていた水でした。 神は私の主人と二人の幼児とその母を救ってくれたのです。
飛びいる火の粉が布団につけば、火薬に火を近づけた如く爆発的に燃え上がるのです。 平時にはとても想像できない事です。 主人は何よりも大切な四本の柱に、懸命になって酢をかけ醤油をかけ、壕の焼け落ちるのを防ぎ、一升瓶に詰まっていた水を手ぬぐいに湿らせて口にくわえて壕を守ったわけです。 主人の身についていた肩掛け鞄は、幸い蓋が少し燃えただけで助かり、私も何の傷もなく、鞄の中で一夜の奮闘を見続けていたのです。
三月十日の朝、主人は防空壕から這い出して、やっと父母姉の安否を気遣い始めましたが、やがて母と姉に遭遇、続いて父を探し求めましたが、遂に見つからず重い足を引きずり多くの死人を見ながら、小岩の親戚に向かって歩き出したのです。
それから数日後、従兄弟の情報によって川で死んだ父の姿を発見したのです。 私の主人のもっとも悲しむべき一時が来ました。 主人の父の死体からは、服以外は全部はぎ取られ、ベルトに代わって荒縄で腰回りも縛ってあり、うつ伏せになって浮かんでいたのです。 三人は茫然となって、涙も出ませんでした。 父の死体の処置に戸惑い、ただ見入るばかりで、又三人の力ではとても川から引き上げることは出来なかったからです。 思い余った母が本所の憲兵隊へ相談に行ったのですが、死体が肉親である確認が出来たら自分で処置しろと云われ、やむなく通りがかりの人たちを頼み、足と胴、肩あたりにロープをかけ、数メートル下の川からやっと引き揚げた時、姉と私の主人は濡れた父の死骸に覆いかぶさり、「とうちゃん、とうちゃん」と泣き続け、母は涙の出ぬまま、放心状態となって立ちすくんでいたのです。 三月の陽は西に傾き始め、黄昏は悲しみを一層深め一面の焼野原に残るのは、戦争への憎悪と、働き手を失った未来への生活苦の暗い影だけでした。
死骸は焼けた家の跡へ運び、焼け残った木を集め、上に火の逃げないようにトタン板の焼け残りを被せ火葬することにしたのです。 静かに悲しみを込めた炎は天高く昇るが如く燃え続けました。
翌朝、主人と母、姉は、骨を入れる器もなく、雛人形の箱をもらって焼け跡へ骨を納めに行ったのです。 悲しみは続きました。 主人の父は、憎しみを込めた黒い塊となって半分残っていたのです。 主人の母は、この時二人の子の前で、、生涯の涙の全てを出しつくすが如く、半狂乱になって泣き伏せ、私の主人もそしてその姉も一緒に泣き続けたのです。
戦争への憎悪への始まり、そして飢餓状態へ進む始まりでもありました。
武器の数だけ命がなくなると
想像すらできなくなってしまった人たちへ
あなたの心の花が枯れてしまう前に
もう一度 想像の水を心に挿してあげてください