なぜ専門家に頼(りすぎ)ることが危険なのか?

精神のない専門人、心情のない享楽人。この「無の者」は、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう[1]

マックス・ヴェーバー[2]

専門家の失墜

専門家というのは、長いこと固有の領域について携わったことで、その領域に関する深く、広い知識と経験を有する人と考えられています。しかし、このような考え方のもとに、無批判に専門家の意見や指示に盲従するのは昨今、非常に危うくなっています。

なぜそのように指摘できるか。今日、このような専門家のパフォーマンスが、それと対比される「門外漢」のそれと比較して、相対的に低下していることを示す事例が増えているからです。

たとえばゲノム研究者のカリム・ラクハニらは、白血球のゲノム配列を解析するアルゴリズムの性能を向上させるためにクラウドソーシングを利用したところ、免疫遺伝学とは関係のない門外漢から多くの回答を得、そのうちいくつかの回答は、既存のアルゴリズムを大幅に上回る精度と速度を達成した、と発表しました。

この他にも、近年では、専門家が頭を抱えてきた多くの難問について、門外漢が問題を解決するという事例が数多く報告されています。先述したラクハニによるコメントを引きましょう。

私たちは航空宇宙局(NASA)、医学大学院、有名企業などのために、クラウドを対象とするコンペティションを過去五年間で700回以上実施してきた。うち、クラウドが集まらなかった、つまり誰も問題に挑戦しようとしなかったのは一回だけだった。それ以外のコンペティションでは、既存のやり方とすくなくとも同等か、大幅に上回る結果が得られている。

アンドリュー・マカフィー「プラットフォームの経済学」p381

 これは一体どういうことなのでしょうか?資金も人材も機材も豊富に抱えているNASAや大企業のような組織は、彼らが専門とする領域について、最も高度な問題解決力を持っているはずです。なぜ、彼ら専門家が解決できなかった問題を、門外漢の人々がいとも簡単に解いてしまうということが起きるのでしょうか。 

門外漢のパフォーマンスが上がる構造要因

ここで「専門家の問題解決力を門外漢のそれが上回る理由」について考察してみると、三つの要因仮説が浮かび上がってきます。

一つ目のわかりやすい仮説は、そもそも専門家の能力は、私たちが一般に考えているほど大したものではない、ということです。そんなバカな、と思われるかもしれませんが、様々な研究がこの仮説を支持しています。

たとえば、1984年に雑誌「エコノミスト」は、今後10年の経済成長率、インフレ率、為替レート、石油価格、その他基本的な経済数値を、さまざまな立場にある合計16人の人物に予測してもらう、という実験を行いました。

その16人とはすなわち、4人が元財務大臣、4人が多国籍企業の経営者、4人がオックスフォード大学の経済学専攻の学生、そして最後の4人が清掃作業員でした。

10年後、同誌が結果を検証したところ、結果は一様に惨憺たるものでしたが、あえて優劣をつければ、一位は同着で清掃作業員と企業経営者、ビリは元財務大臣という結果でした。

この「専門家はぶっちゃけ、本当に能力があるのか」という論点について、さらに大規模な検証を行ったのがカリフォルニア大学ハース・スクール・オブ・ビジネスのフィリップ・テトロックです。

テトロックは、大学・政府・シンクタンク・メディアで活躍する著名な専門家を284人あつめ、彼らによる経済や社会に関する将来予測を2万7450も収集し、その結果を検証しました。

結果は、同様にやはり「惨憺たる」ものでした。テトロック自身は、さらに辛辣に「専門家と言われる人の予測は、ダーツを投げるチンパンジーにも負けただろう」と結果を評価しています。

さらに加えて指摘すれば、先述した通り、現在の世界で存在感を示している企業の多くは、ここ二十年ほどのあいだに創業されています。彼らはいわば「素人」として事業を起こし、ここまでの存在感を放つまでになったわけですが、では専門家を抱えていた多くの大手既存企業はいったい何をやっていたのでしょうか。結果から言えば「なにもできなかった」というしかありません。

なぜこのようなことが起きるのでしょうか?まず、そもそも専門家の能力評価は極めて難しいという問題があります。特に高度な専門家になればなるほど、領域は細分化し、知識のアップデートは難しくなります。

高度専門家を評価するためにはさらに高度な専門家がいるわけですが、そのような人物は数が極めて少ないため、結果として「評価不全」の状況が様々な場所で発生していると思われます。

さて、次に「専門家の問題解決力を門外漢のそれが上回る要因仮説」として二つ目に指摘しなければならないのが、VUCA化によって知識や経験の陳腐化が早まっているという点です。

たとえば先述した遺伝免疫学の世界では、十年も経たずに技術トレンドが大きく変わっていますし、これはメディアテクノロジー。人工知能や機械学習・エネルギーの分野などにおいても同様です。

このような変化が激しい領域では、組織のコアに抱えた人材の知識・経験をアップデートし続けなければならないわけですが、変化のベクトルはまさにVUCAで予測が難しいため、学習を先取りすることはなかなかできません。

一方で、門外漢の集団からなるクラウドは膨大な人数からなっているため、最新の知識を持つ人がどこかしらにいることになります。そのため、コアの陳腐化が急速に起きるのに対して、クラウドの陳腐化は基本的に起きないということになります。

この仮説がもし正しいとなると、私たちは組織のコアに最先端の知識を持った人材を抱えることの意味合いについて、あらためて再考しなければならない時期に来ているということになります。

さて、最も本質的な「専門家の問題解決力を門外漢のそれが上回る」理由について、次に指摘したいと思います。 

なぜ地質学者であるダーウィンが進化論を着想したのか?

「専門家の問題解決能力を門外漢のそれが上回る」理由として三つ目に指摘したいのが、門外漢だからこそ、問題の解決に対して画期的なアプローチを思いつくことができる、ということです。

これは過去の偉大な発見・発明の多くが「門外漢」によってなされていることを思い出せば容易に理解できるはずです。

例えばチャールズ・ダーウィン が典型例でしょう。ダーウィンは進化論における、いわゆる自然選択説を提唱したことで知られているため、一般には生物学者として認識されていますが、本人自身は、終生自分のことを地質学者と名乗っていました。

つまり、人類史上、最も科学に大きな影響を与えた生物学上の仮説が、専門家の生物学者ではなく、門外漢の地質学者から提出された、ということです。この事実は「専門家と門外漢」という問題を考察するにあたって、極めて重大な何かを示唆しています。

そもそも、なぜ専門の生物学者がこの仮説に気づかず、門外漢のダーウィンが気づいたのでしょうか?それはまさに「彼が専門の生物学者でなかったから」でしょう。

ダーウィンは、自然選択説を思い当たるに当たって、二つのインプットが重大な契機になったと述懐しています。

一つはライエル の「地質学原理」です。ダーウィンは、同著にある「地層はわずかな作用を長い期間蓄積させて変化する」というフレーズに接し、動植物にも同様なことが言えるのではないか、という仮説を考えたらしい。

そしてもう一つが、有名なマルサス の「人口論」でした。「食糧生産は算術級数的にしか増えないのに人口は等比級数で増えるため、人口増加は必ず食料増産の限界の問題から頭打ちになる」という予言=「マルサスの罠」を提唱して議論を巻き起こした著作ですが、この本を読んでダーウィンは、食料供給の限界が常に動物においても発生する以上、環境に適応して変化することが種の存続において重要であるという仮説を得ています。

そしてこれら二つの仮説が、結局「自然選択説」という理論に結晶化するわけですが、ダーウィン自身の専門も、また彼にインスピレーションを与えた二つのコンセプトも、どちらも「生物学」に無縁であったということに注意して下さい。

専門家の危険性

これまでの考察をひっくり返してみると、専門家に過度に依存することは問題設定あるいは問題解決の能力を著しく毀損してしまうという危険性が示唆されます。これが最も悪い形で出たのが日本の東海道新幹線の開発でした。

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