「犯人探し」より「原因探し」を
日本では何かの失敗が起こると「責任追及のため」と称して原因究明がはじまります。再発防止のためなどと言いますが殆どの場合、それはホンネではありません。
再発防止のためには根本的な原因までさかのぼって事故を分析する必要がありますが、実際には業務上過失致死、業務上過失障害で短兵急に関係者を処分し、それで一件落着としてしまうケースが多い。
要するに犯人探しの仕組みなんですね。
法律を運用する人間は、失敗に直接関わった個人に責任を負わせようとするばかりで、その事件を発生させるに至った組織や社会の枠組み自体の問題を追及するという考え方を持っていないようにみられます。
ロスアラモス国立研究所のマクローリンは、日本の原子力の扱いがあまりに形式的になっていること、それ故、近い将来重大な事故が起こるリスクがあることを警告する手紙を日本に送ったところ、たまたま、本当に偶然にその五日後にJCOの臨界事故が発生しました。事故後、マクローリンは米国の調査委員になり、日本へ調査へ来ています。
ところがここで彼は愕然とすることになる。関係者の誰もが「本当のことを語らない」からです。なぜかと言えば単純で「こういうヤバいことをやってた」と話せば、業務上過失に問われるからです。
日本の法律の基本的な「有罪」の構成原理は「予見可能性」と「回避措置の有無」です。つまり「ヤバいことが起きそうだとわかっていた」かどうか、というのと「それを避けるためにやれるだけのことをやった」かどうか、ということで、この両方が成立すると有罪ということです。
一方、米国には司法取引や免責措置という仕組みがあります。盲目的に米国の仕組みを礼賛するような風潮はどうかと思いますが、この点については、いまの司法制度が米国に学ぶべき点はあるのではないでしょうか。
米国の仕組みは「犯人探し」よりも「原因究明」に軸足をおいています。一体なぜこのような悲惨な事故が起こったのか?という点について、あんたのことはもう責めない、それは約束するから、いったいこの組織のなかでどういうことが話され、行われていたのか、一切合切を僕らに話してくれ、という取引が出来るということです。
実は、日本でも少数ながらもそういう前向きな取り組みが行われたケースもあります。例えば1970年の三菱重工長崎造船所で置きた大型タービンロータの破裂事故がそうです。この事故自体は、4人の死亡者、61人の重軽傷者を出した悲惨なものですが、事故がタービンの設計・製造技術の進歩に与えた影響は絶大なものがあります。
この事故の従前、タービンロータの破裂事故は年に数件は発生し、その度に多くの犠牲者を出していましたが、この事故で得られた徹底的な知見が世界に発信されて以来、世界中でタービンロータの破裂事故は一度も起こっていません。
長崎造船所で作られていたタービンロータは重さが50トンにもなる「鋼鉄の塊」でした。タービンなので、当然回転させられるわけですが、事故は定格回転数の20%増しである3600回転に向けて回転数を増速させている最中、回転数が3540回転になったところで発生しました。
不思議なことに、どのタービンも破壊事故を起こすときは4つに破裂することが経験的にわかっていますが、このときも、50トンになるタービンは文字通り「四散」してしまったのです。
飛散した破片のうち11トンの部分は、1.5キロ先にある山の上に飛んで突き刺さりました。一方、9トンになる部分は、工場から0.8キロ先にある長崎湾に落ちました。
残りの破片二つのうち一つは、造船所の地面に突き刺さり、最後の破片が工場の中を引っ掻き回して多くの死傷者を出したのです。
破裂の原因は、鋳造時の「あぶく」にあることが現在ではわかっていますがここでは詳述しません。
注目すべきは検察の対応です。三菱重工は事故調査に全面的に協力するとともに、当時の技術としては「出来る限りの対応をした」うえでの事故だったと主張しました。
この主張を受け、検察は業務上過失傷害と過失致死での立件をとりやめ、その代わりに「なぜこの事故が発生したのか」という技術的な解析に全力を尽くし、その結果を世界に向けて発信することで技術の進歩を促すことを決断しました。
この事故とその結末は、技術の進歩が、技術そのものによってもたらされるのではなく、社会や、会社、司法も巻き込んだ上で、それぞれがそれぞれの立場で「技術を進歩させる」ということに向き合うことが大事なのだ、ということを示唆しています。
私たち人間は、何か悲惨な事件や事故が起きると、すぐに「犯人探し」に走ってしまう悪い癖があります。しかしね、その「犯人探し」ということに関して言えば、あなたもわたしも含め、同じ社会に生きている人全員に、その責任はあるわけですよね。
だからもう「犯人探し」は止めて、なぜこういうことが起きたのか?それはどうやったら防げるのか?そのためにわたしは、あなたは、何ができるのか?ということを、話し合わなければならないと思うのです。