#069 「顔が見える」ことについて レヴィナスの他者論を踏まえて

エマニュエル・レヴィナス(1906-1995)はフランス出身の哲学者です。幼少期よりユダヤ教の経典「タルムード」に親しみ、成人してからは独自の倫理学、エトムント・フッサールやマルティン・ハイデッガーの現象学に関する研究を残しました。

レヴィナスの生涯を貫いていた哲学上のテーマが「他者」でした。レヴィナスのいう「他者」とは、文字通りの「自分以外の人」という意味ではなく、ニュアンスとしては「わかりあえない者、理解できない者」といった意味です。

日本人はよく「あ、うんの呼吸でやり取りできる」、いわゆるハイコンテキスト社会に生きている、と言われますが、言葉を変えれば、レヴィナスのいう他者とは「コンテキストを共有していない人」とも表現できるかも知れません。

レヴィナスが残したテキストはどれも極めて晦渋で、これを読む限り、レヴィナス自身はどうも「他者」を、人以外の概念にも拡大して用いているようなのですが、どうもよくわかりません。ただ哲学研究者でもない私たちのような立場の人間がレヴィナスのテキストから何かを汲み取ろうというのであれば、まずはわかりやすく「他者とは、なかなかわかりあえない相手」ということでまずは良いと思います。

二十世紀の後半になって「他者論」が大きな哲学上の問題として浮上してきたのは必然性があります。哲学というのは、世界や人間の本性について考察する営みですが、では古代ギリシアの時代以来、膨大なエネルギーをかけて考察が積み重ねられてきたにも関わらず、今だに「これが決定打だ!」とされるものが確定されないのは、なぜなのか。

答えは明白です。ある人にとって「これが答えだ」とされるものが、決して「他者」にとってのそれではないからです。連綿と「提案」と「否定」が続く、永遠に「完全な合意」に至らないかのように思える、この営みが、「わかりあえない存在」としての「他者」の存在の浮上につながったのでしょう。

このように、レヴィナスにおける「他者」は、私たちがふだん用いる「他人」という言葉よりも、はるかにネガティブなニュアンスを持っているわけですが、それでもなお、レヴィナスは「他者」の重要性と可能性について論じ続けています。ううむ、そのようなよそよそしい相手、わかりあえない「他者」が、なぜ重要なのか。レヴィナスの答えは非常にシンプルです。なぜなら

他者とは「気付き」の契機になる

からです。

自分の視点から世界を理解しても、それは「他者」による世界の理解とは異なっている可能性がある・・・というかほぼ確実に異なっているわけです。この時、他者の見方を「お前は間違っている」と否定することもできますし、実際に人類の悲劇の多くは、そのような「自分は正しく、自分の言説を理解しない他者は間違っている」という断定のゆえに引き起こされています。

この時、自分と世界の見方を異にする「他者」を、学びや気づきの契機にすることで、私たちは今までの自分とは異なる世界の見方を獲得できる可能性があります。

レヴィナス自身は、このような体験を、ユダヤ教の師匠と弟子である自分との関係性の中から、体験的に掴み取っていったようです。この感覚は、師匠について何らかの習い事をやった経験のある人には、心当たりがあるのではないでしょうか。

私自身について言えば、学生時代に長らく勉強した作曲がそうでした。習い始めの頃は、どうにもこうにも、師匠のいう「音を外に探しにいってはならない」という注意が、感覚的によくわからない。ここでいう「わからない」というのは、もちろん日本語として「わからない」ということではありません。

その文言でもって、師匠が意図するところが「わからない」のです。ところが、この「わからなさ」は、ある瞬間に気づくと氷解している。その瞬間に何があったのかは、自分でも遡及的に体験することができません。とにかく、昨日まで「わからなかった」ことが、なぜかはわからないけれども、今日になって「わかった」と感じられる。

そのような体験をした人も少なくないと思います。このとき「私」という言葉で同定される個人は、しかし「わかった」後と前では、違う人間ということになります。なぜなら、今日の自分が、昨日の自分に同じ文言を投げかけても、それは「バカの壁」に当たって向こうに届かないからです。これが、レヴィナスのいう「他者との邂逅がもたらす可能性」です。

一橋大学の学長も務めた歴史学者の阿部謹也の指導教官だった上原専禄は、「わかる」とは、それによって自分が「かわる」ことだ、と阿部謹也に指導したそうですが、これも他者という概念と接続されます。自分が「変わる」わけですから、わかった後と前で、過去の自分は現在の自分にとって他者になってしまう。

逆さまに言えば、現在の自分にとって、わかった後の未来の自分は他者である、つまり「わかる前の私」にとって「わかった後の私」を想像することは不可能なくらいに難しいし、ましてや対話など成り立つわけがない、ということです。

さて、レヴィナスは、ともすればわかりあえず、敵対的になりうる可能性のある「他者」との邂逅において、しばしば「顔」の重要性を指摘しています。例えば次のような文章です。

ひとり「汝殺す勿れ」を告げる顔のヴィジョンだけが、自己満足のうちにも、あるいはわたしたちの能力を試すような障害の経験のうちにも、回帰することがない。というのは、現実には殺すことは可能だからである。ただし殺すことができるのは、他者の顔を見つめない場合だけである。

レヴィナス『困難な自由』内田樹訳

これほどまでに「なんだかよくわからないけど、なにかとても大事なことが書かれている気がする・・・」と感じさせる文章も少ないのではないでしょうか。レヴィナスの文章は全般に難解ですが、言葉がもたらすイメージの広がりを素直にすくい取って行くと、読む人それぞれなりに「ストン」と来るところがあるように思います。

それはともかくとして、レヴィナスがここで言おうとしているのは、わかりあえない他者とのあいだであっても、「顔」というビジョンを交換することによって、関係性を破壊することは抑止できる、ということです。

テキストで読んでも、なかなかピンとこないかも知れませんが、同様のメッセージを暗に伝える映画や漫画はたくさんあります。たとえば、地球外生命体(以下、簡易に異星人と記す)と子供との交流を描いたスティーブン・スピルバーグの傑作映画『E.T.』をとりあげてみましょう。

この映画では、地球探査にきて宇宙船から取り残されてしまった異星人と、彼をかくまってなんとか宇宙へ帰してあげようとする子供たちとの友情が描かれています。彼らの敵役として描かれている地球人の大人たちは、この異性人をなんとか捕獲して研究材料にしようと子供たちを追いつめますが、子供たちはこの包囲を逃れ、異星人は迎えにきた宇宙船に無事にたどり着いて地球を去っていく、というストーリーです。

この映画を実際に見て気づいた、という方もいらっしゃるかも知れませんが、実はこの「E.T.」という映画には、一種異常な特徴があります。それは「大人の顔が画面に出てこない」ということです。

ここから先は

1,585字
この記事のみ ¥ 500

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?