民主主義の未来とルソーの一般意志

いやあ、米国の大統領選挙、トランプさんが返り咲きましたね。これは以前にもどこかに書いたことがあるのですが、二大政党制というのはちょっともう制度的に破綻しているのではないかと思います。

トランプは今回、共和党から立候補したわけですが、かつては公然と民主党支持を表面していましたし、多額の献金をしたこともあります。

つまりトランプは、何らかのイデオロギーを持っていて、そのイデオロギーが共和党の考える政治信条と親和性が高いという理由で共和党から立候補したわけではなく、ある意味で「ご都合主義」的に共和党から立候補したわけです。

哲学の用語でいえば「プラグマティズム」ということになり、これはこれでアメリカ発祥の哲学コンセプトではあるので、さもありなんと言えば言えるわけですが。

それはともかく、私がなぜ「二大政党制は破綻している」と考えるかというと、人々のニーズが多様化しており「二つのオプションからしか選べない」というシステムでは、国民の期待にきめ細やかに対応することができないと考えるからです。

かつてのように、基本的な生活条件がままならないという時代であれば、人々のニーズは一様でした。マズローの欲求五段階説を持ち出すまでもなく、人々はまず生活上の「不快・不安・不満」の解消を政治に求めますから、道路を作るとか水道を巡らすとか電気を配るといった基本的なニーズの充足が重要であって、二大政党制というのは、これらのニーズのうち「AとBのどちらを優先するか」という争点でもって争っているだけでよかったわけです。

ところが、こういった基本的な生活条件が充足されてしまうと、人々のニーズは多様化していくことになります。マズローの欲求五段階説でも、生理的欲求が満たされた人は、その次に「所属の欲求」や「承認の欲求」やらを求めるようになるわけですが、これらは物質的なニーズというよりは精神的なニーズであり、個々人のパーソナリティによっても大きく変わってくることになります。

こうなってくると、二大政党制では対応が難しい・・・というよりも、そもそもの大前提となる議会制民主主義自体からして難しいということになると思います。

これはよく持ち出す思考実験なのですが、明治時代の人をタイムマシンに乗せて現代に連れてくれば、見るものにすべて驚くはずですが、「あ、これは俺たちの時代と同じだ」と反応する場所が三つあると思うのですね。

それはどこかというと政治の「国会」と企業の「会議」と学校の「授業」です。面白いのは、これら三つはすべて「情報をやり取りする場」ですから、ICTの技術の進歩によって最も大きな変化が起きるはずなのに、むしろ真逆で、この百年間でほとんど景色が変わっていないわけです。

そもそも代議士を選んで国会で議論させるというシステムは、情報のやり取りに非常にコストがかかったために生まれた「妥協の産物」です。何といっても、国民の要望を直接に国政に反映できるのであれば、別に代議士に訴えて、その人がまだ別の代議士と議論するなどというまだるっこしいやり方を採用する意味がありません。

ということで、今回の記事では、この「デジタルテクノロジーによる直接民主主義の可能性」を、ルソーの一般意志という概念を用いながら考えてみましょう。

組織や社会における集合的な意思決定の仕組みの可能性について、はじめて本格的に論じたのがルソー でした。彼は、著書「社会契約論」の中で、市民全体の意思を「一般意思」という概念で定義し、代議制にも政党政治にもよらない「一般意思にもとづいた統治」こそが理想であるという考えを提唱しました。

ルソーの説いた一般意思は非常に奇妙な概念で、多くの後世の社会学者や思想家を困惑させているのですが、現在の水準まで発達したデジタルテクノロジーとネットワークを活用すれば、これが可能になるかも知れない、と指摘しているのが思想家の東浩紀先生です。少し長くなりますが抜粋しましょう。

民主主義は熟議を前提にするが、日本人は熟議が下手だと言われる。AとBの異なる意見を対立させ、討議の果てのCの立場に集約するという弁証法的な合意形成が苦手だと言われる。確かにそうかも知れない。だから日本では二大政党制も取締役会議も機能しない、と言われる。けれども、かわりに日本人は「空気を読む」ことに長けている。そして情報技術の扱いにもたけている。それならば、わたしたちはもはや、自分たちに向かない熟議の理想を追い求めるのをやめて、むしろ「空気」を技術的に可視化し、合意形成の基礎に据えるような新しい民主主義を構想したほうがいいのではないか。そして、もしその構想への道筋がルソーによって二世紀半前に引かれているのだとしたら、そのとき日本は、民主主義が定着しない未熟な国ではなく、逆に民主主義の理念の起源に戻り、あらためてその新しい実装を開発した先駆的な国家として世界から尊敬され注目されることになるのではないか。民主主義後進国から同先進国への一発逆転。

東浩紀「一般意思2.0」 

初めて東浩紀氏のこの提言に接した時には、とても興奮したことをよく覚えています。歴史が螺旋状に発展する、つまり「回帰」と「進化」が同時に起こる、というヘーゲルの「弁証法」の考え方を適用すれば、ICTの力によって古代ギリシアの直接民主制が、より洗練された形で復活させることができるかも知れません。

これは確かに熟議の下手な日本人にとっては明るいビジョンです。しかし、地に足をつけて考えてみれば、この仮説が大きな問題をはらんでいることがわかります。それは「誰が一般意思を汲み取るシステムを作り、運営するのか」という問題です。

東浩紀は、集合知を不特定多数から吸い上げる技術の成功事例としてグーグルを挙げており、同様の仕組みを拡張させて社会運営における意思決定に活用できるのではないかという論旨を述べているのですが、グーグルはその秘密主義で悪名高く、検索結果を導出するアルゴリズムはブラックボックスになっていてごく一部の関係者しかアクセスできません。

つまり、グーグルが依拠している民主主義(と彼らが呼ぶもの)は、一部のごく限られた人にしか関与できないアルゴリズムとシステム、つまりテクノクラートによって運営されているわけで、本質的なパラドックスを含んでいるのです 。

市民全員の一般意思を吸い上げるためのシステムとアルゴリズムがごく一部の人によって制御されるのであれば、そのシステムから出力される一般意思が本当に市民のそれを代弁するものであるかどうかは誰にも保証できないでしょう。

むしろ、そのような「極端な情報の非対称性」を孕んだシステムが絶対的な力を持てば、ジョージ・オーウェルが「1984」で描いたビックブラザーと同様の「絶対権力」に堕する可能性もあります。実際にルソーは「一般意思が個人に死を命じれば個人はそれに従わねばならない」とまで述べており、「偉大なるコモンセンスの人」バートランド・ラッセル から「ヒトラーはルソーの帰結である」と名指しで攻撃されています。

この危険性がよく現れているのが中国だと思います。中国ではX(旧Twitter)は禁止されており、その代わりに上海に本社を置く「新浪公司」が運営するWeiboが利用されており、ユニークユーザー数は6億人弱とされています。

で、ここがポイントなのですが、中国共産党は、このWeiboの呟きを常に分析しており、ここで呟かれる「怒り」や「嘆き」や「喜び」を政治にタイムリーに反映させているらしいのですね。

私がこの話を伺ったのは東大で国際政治を教えられている鈴木一人先生からですが、鈴木先生によれば、中国が4年ほど前に成長路線から格差解消に大きく路線を変更たのは、Weiboで呟かれる声が「成長への期待」から「格差拡大への怨嗟」へとシフトしたことを受けて、ということらしいのです。

しかし、こう考えてみると、どうも機能不全に陥っている米国や日本の民主主義よりも、一見すれば一党独裁で、事実その通りではあるのですが、その独裁政治の立脚点になっているのが、6億人からなる市井の人々の「声」なのだとすると、本当に民主主義的なのはどっちなのか?ということを考えてしまいますよね。

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