フロリレージュ「筍、帆立」
筍は、静かで厳かな芽吹きに満ちた春か、荒くれた祝祭のような春のどちらかをイメージさせるものだ、と思っていた。これまでは。このお皿の筍が喚起するのは、暖かくて明るい春の日だまり。それは筍から受けたことがなかった印象だった。
主役の筍は、節の隙間に、帆立とクリームのペーストが詰めてある。その上には、昆布の炭がまぶされたクレソンが載せられる。筍に寄り添うのは、茹でた蛤。
主役の筍は、と書いたが、誰がなんと言おうと、私は筍がこのお皿の中心だと思う。確かに、単純に量で言えば、貝類が拮抗している。まるごとの蛤と、ふんだんに使われた帆立から、貝を楽しむ料理と捉えられてもおかしくない。しかし、この構成からは、貝より筍にお皿の重心があるように思われた。
まず帆立は、筍の中に控えめに収められているという印象を受ける。
もし、粒状になるように大きめに切ってあったとすれば、その食感の印象が付け加わって、もっと「帆立を食べている」という感じがしたことだろう。しかし、実際には帆立は滑らかにペーストにされている。帆立が一歩後ろに下がっているかのようだ。
また、クリームとともにペーストにされていることも、この印象につながっている。クリームと渾然一体とした味わいになっていて、帆立の個性というよりも、豊かなうま味とまろやかな風味が前面に出ているのだ。
蛤は、もっとそれを強調した構成にすることを避けているようにも感じられる。
例えば、殻付きのまま提供することもできた。筍をもう少し小さくして、蛤の存在感を大きくみせる、という選択肢もあったはずだ。だが、そうしていない。
姿のままの蛤を噛みしめる嬉しさを与えてはくれるけれど、蛤を主役とするには物足りない扱いだろう。
対して、筍には、そこに光を当てるために、あらゆる工夫がなされているようだ。
まずは、筍の節をそのまま活かした調理。
単純に筍と帆立のペーストを層状にしたいだけなら、筍のどの部分を切って使ってもよかったはずだ。だが、ここでは筍の節の部分をわざわざ使って、そこに帆立を詰めている。どの部分でも使える場合と比べて、節の部分に帆立を詰めようとした場合、使える部分は少なくなるだろう。経済的な不利が差し置かれているのだ。
そうまでして、筍をそれが育つ形そのままを見せるかのように演出している。
そして、注目すべきは、筍にほんのり焼き色がつけられていることだ。
少しだけ回り道をする。そもそも、このお皿には、和食の煮物や汁物への目配せがはっきりと見える。
炭がまぶしてあるクレソンは、すぐにはクレソンのようには見えない。むしろ、わかめのようだ。筍料理の超定番、若竹煮の組み合わせを再現している。筍と帆立、筍と蛤、という組み合わせは、若竹煮ほど有名なものではないにせよ、普通は煮物あるいは汁物として現れてくる。フロリレージュは、主要な食材の組み合わせにおいては、煮物や汁物の和食の伝統を路線を踏襲している。
こうした料理では、筍は上品な振る舞いをする。お出汁をわずかに含んでたおやかな風味や、しっかりとした、だけどうるさくない貝に支えられたしみじみとしたおいしさを想像してほしい。
しかし、このお皿の筍からは、煮物や汁物の穏やかな筍とはまったく違った印象を受けることだろう。
それは、筍に焼き目がつけられているからだ。焼き目の香ばしさと、焼いたことによって強調される筍の風味は、もっと押しが強くてシンプルなおいしさだ。
煮物や汁物の筍がひっそりとした春を、あるいは始まったばかりの春をイメージさせるとしたら、この筍においては、春はとっくに始まっている。外気は暖かく、光ははっきりと明るい。
しかし、焼き色がそこまで強くない、ということも同様に重要だ。
筍を鉄板焼きにしたとき、あるいは、筍を皮ごと火にくべて焼いたときは、もっと荒々しい香りがする。この筍ではそうはなっていない。
香ばしいことによる華やぎや軽やかさを付け加えるにとどまっている。
コーンポタージュのようだ、と思った。そのように思った最初のきっかけは、筍ととうもろこしがともにイネ科の共通した風味を持っていて、かつ、牛乳分と組み合わされている、ということにある。
しかし、よくよく考えてみると、それだけでもないようだった。コーンポタージュでは、ただ焼いたとうもろこしや、ただ茹でたとうもろこしからは感じられないような、とうもろこしの豊かな風味が感じられる。それに貢献しているのは、牛乳分のぽってりとしたおいしさであるはずだ。筍も、牛乳分の、そして貝のしっかりたっぷりとしたおいしさに支えられることで、他では見せない表情を示す。
このお皿で、筍は、帆立と蛤、クリームを脇役に従え、ほのかな焼き目の香ばしさを纏って、陽気に輝いている。