見出し画像

生涯最高のバーミヤン

 長引いたZoomでのゼミが終わった。時間を確認すると、7時半を過ぎていた。

 お腹が空いたが自分で夕飯を作る気にはならなかった。家には食材はあるが、これから米を炊くのを待つ気にはならない。蕎麦やパスタは選択肢として思い浮かばなかった。椅子から立ち上がった姿勢のまま、何が食べたいか考えた。バーミヤンに行こうと思う。なぜバーミヤンなのかはわからないが、吉野家ではなく、町中華ではなく、ガストでもなく、餃子の王将でも居酒屋でもイタリアンの食堂でもなく、バーミヤンだった。バーミヤンの和風中華が食べたかった--いや、それは不正確な表現で、なぜなら和風中華が食べたいというわけではなく、バーミヤンで食べたかった、バーミヤンに行きたかった。

 そのゼミは以前から参加させてもらっている他大のゼミで、リアルでそのゼミに参加していたときその大学の近くにバーミヤンがあるのを見た、そんなことも関係しているのかもしれない。あるいは、ゼミにいたM1の一人が体育会系上がりの非常に素直な青年で、今日も素直な発言をしてZoomの画面越しに顎に手を当てて首をひねったりしていたので、彼が経験したであろう「授業の後に友人とファミレスに行くこと」を想起し、経験したことのないことへのノスタルジーを喚起させられたのかもしれない。記憶にある限り、バーミヤンに入ったことはない。もしくは、単に彼の生き方への憧れを喚起させられたのかもしれない。私はバーミヤンに一人で行くのだが。


 雨が降っていて、ドアを空けると半袖のシャツでは寒いと感じた。洗濯が面倒だと思いながらパーカーを出した。そのゼミは原典講読の?ゼミで、ありえた他の前置詞との差異から読みを確定させたりしていた。長い時間椅子に座って疲れていた。ゼミの最後に話題になった、文化人類学の民族誌と小説は何が違うのか、民族誌がフィクションで、小説が部分的に真実を含むなら、どのように民族誌を擁護できるのか、ということを考えながら歩いていた。(ここで再帰的にそのテーマについて考えたいわけではない。この文章を民族誌あるいは小説と言えるほど私は厚かましくはない。)

 パーカーを着ていても寒かった。引っ越してきて約2ヶ月、自宅とバーミヤンと家の間はおおむね碁盤の目状に道が広がっていて、まだ通ったことのない道を通りながらバーミヤンに向かった。サーモンアンドトラウトが営業していた。しばらく前に通りがかったときはまだ店を開けていなかったのだが。人がだいぶ入っていた。メニューを見たくて窓から中を覗いていると、店員さんが出てきて予約で満員だと告げた。今日入りたいわけではない、もし紙のメニューがあるなら見られないか頼むと、悪いけれどいま紙のメニューはないのでInstagramで見てほしいと言われた。何回か名前が言及されるのを聞いたことがある店で、いつか入ってみたいと思っていた。席が空いていようと今日はバーミヤンだが。


 バーミヤンは空いていた。入り口向かって左側のフロアーはほとんどが空席だった。右側のフロアーに案内されると、そちらにはちらほらと客がいた。空いていたので4人がけの席に一人で座った。

 メニューを見ようとするもメニューがなかった。正確には、紙のメニューがなかった。鳥貴族のようなタブレット端末がおいてあることに気づく。テロテロした厚紙のメニューは私が知らないうちに廃止された。電子メニューのトップ画面は季節のおすすめ。右にスクロールしていくとタブが切り替わり、前菜や麺が表示される。麺のタブで最初に表示された五目麺がいいと思った。定食のタブに移ると心が動いた。実質的に初めてバーミヤンに来たのだから、バーミヤン定食、ラーメンと半チャーハン、餃子、杏仁豆腐がセットになったものを頼むべきなのではないか。でもラーメンやチャーハン、餃子は、他の店の個性的に作られたそれらと比べ、普通さが否定的なかたちで目についてしまうのではないか。たしかに僕はバーミヤンに極限まで洗練された普通さを求めてやってきたわけだが、ラーメン一杯分とチャーハン半分その普通さに耐えることができるのか。いま考えれば、別にそれでもよかったのかもしれない。完璧な普通さに飽きてしまうことも含めて、バーミヤンなのだと。他に花山椒たっぷり担々麺とも迷ったが、最終的には五目麺を選んだ。コカ・コーラ社の飲料限定のドリンクバーも頼んだ。

 注文してからもメニューを眺めていて気づく。紹興酒のロックやグラスワインが100円(99円?)で頼めるのだった。魅力的だと思ったが、五目麺をこの状況で食べるならばアルコールは入れるべきではない、と心を鬼にして(つまらない言い回しだ)注文しないことにした。

 ドリンクバーをもらいにいった。コーラ、カルピス、爽健美茶、ミニッツメイドなどから選べるというだけでなく、機械自体がブレンドを作ってくれるらしかった。タッチ画面を手繰っていくとレモンソーダがあった。弱炭酸、強炭酸、ジンジャーコーラなどバリエーションがある。五目麺を迎え撃つのにこれ以上ふさわしい飲み物はないだろう、とグラスを注ぎ口の下に置くと強炭酸のボタンを押した。グラスの1/4程度の液体が出て、止まった。一度押すだけではいけないのかと、ボタンを押しっぱなしにしてみたが、また1/4ほど出て止まった。たしかに私はグラスに氷を入れなかったが、それにしても少なすぎだろう。グラスを3/4ほど満たして席に戻った。席に戻ってから、指がベタベタしていることに気づいた。おそらくドリンクバーの機械のせいだろう。机の上にはナプキンはなく、ドリンクバーのところまで取りに行った。

 私の席から見える範囲には、まず隣の席にスーツの男性ひとり。私が着席して以降にやってきた。コンサバな格好の20代女性の二人組。「職業病」という単語と、「患者が」といっていたから、現場の方の医療関係者か。よれよれな服を着た若い男性と入れ替わって、アウトドア風の格好をした男性ひとり。スーツの男性ひとり。近所の奥様風ふたり。奇抜な格好の若者ふたり。もう一組、髪の色の明るい少年と派手な服を着た若者のがいる、と思ったら、派手な服を来た方は母親のようだった。紳士風老人ひとり。タブレットでオーダーしたあと、卓上ベルで店員さんを呼んで、麻婆豆腐をネギ抜きで注文していた?カラオケにしたジャズ?がかかっている。下北沢のはずれにあるバーミヤンってかんじだ。このバーミヤンは下北沢の駅から歩いて10分くらいのところにある。このあたりに住む人か、下北沢を訪れる人の中でもずれた人がここにくるのだろう。

画像1

 写真にナプキンや箸袋、都知事選への投票の呼びかけが写っているのは、普通の料理写真としてはいただけないが、バーミヤンで食べたものの記録としてはむしろ好ましいと僕は確信している。(そういえば、引っ越したせいか知らないが、都知事選の投票用紙が届いていない。とはいえもう引っ越しから2ヶ月経っているのだが。)

 五目ラーメンは完璧だった。レストランにいたときには、こういう盛り付けをするためにピンセットを使っていたのを思い出す。こんなに完璧だったのは偶然かもしれないが、バーミヤンならこんな完璧な配置を現場スタッフの手をわずらわせることなく実現する方法を作りかねないと思う。方法は想像がつかないが。エビが中央からやや右上にあり、それに呼応するようなうずらの卵と、大きく切られたにんじん。そのにんじんは部分的にきくらげに覆われている。キャベツとチンゲン菜は均等に散らばっていて、小さなきくらげは見た目に変化を与える。

 どの野菜も食感が完璧だった。柔らかい、だがしなしなというほど柔らかくはない。Cookdoの中に入っていそうな野菜とは違う。大きさも一口大より少しだけ小さく、口触りが適切に優しい。いくつかの野菜と麺を口に含むのに無理がなく、しかしつまらなくならない程度の食感。味付けには飛び抜けて感じられる風味がない。鶏の味を効かせましたみたいな押し付けもなければ、かといって化学調味料が気になるほどでもない。素直においしい。麺のことは覚えていない。覚えていないタイプの完璧さにおいては完璧だ。二つ星を取るようなレストランにひとつの完璧があるとして、そうではない完璧がここにはある。いずれも、深い思考や実験に裏打ちされた完璧さであり、ここに完璧なものがあることを疑わなくていい、素直に完璧さを享受すればいいということの安心感がある。二つ星を取るようなレストランがおおむね鮮烈な印象を与えることを中心に完璧さを組み立てているとすれば、バーミヤンは抑えられた抑揚の中で完璧さを作っている。驚かせることなく、嫌味なく、でも退屈ではなく。

 携帯を見ながら五目麺を食べた。携帯を見ながら食べるにふさわしい料理だった。くだらないインターネットの記事を読んだ。

 五目面の中に、明らかにサイズが大きく不格好な形のにんじんが現れた。にんじんを切断面が円形にではなく方形に切ろうとしたときに、一番外周に近い部分を包丁で切りそこねて厚さが不揃いになってしまう、その部分だった。実際包丁の切れ込みも入っていた。工場でこの野菜を切った人がいる。ここにだけ人間性があって、涙が溢れそうになった。


 完璧な食事をしていた。なにかのフィナーレみたいだと思った。この食事風景のまま画面がフェードアウトにならない理由が、食べ終わった瞬間に死ねない意味がわからなかった。あの瞬間は何かの結晶なのだと感じた。僕がこれまで生きてきた時間の、社会の、フィクションの……何の結晶なのかはよくわからない。

 家に帰ってからもずっと反芻していた。たぶん僕の人生で、今日のバーミヤンより素晴らしいバーミヤンに出会えることはない。疲労も時間も季節も場所も天気も料理も客層も、すべてが最高だった。今後、すべてのバーミヤンは今日のバーミヤン以下であるか、同じくらい素晴らしかったとして、今日のバーミヤンの繰り返しとして現れるかのどちらかだ。私の人生は、バーミヤンに何かの期待をしていられた頃と、あれほど素晴らしいバーミヤンにはもう出会えないと思いながら過ごす余生に二分されることになる。人生の一番楽しい瞬間のひとつが終わった。あとは死に向かうだけだ。

これから書きたいと思っているのは「家でできる日本酒の作り方」「ペルー料理を理解するための料理・レストランガイド」「セビーチェのすべて」「ペルー料理を日本料理化する:日秘料理の構想」「砂漠への虚無旅」です!乞うご期待!