トマトソースのパスタの五つの?バージョンについて
フランス人アラン・デュカスの料理学校と、スペインの料理学校、バスク・キュリナリー・センターで学んだフィリピン人のルームメイトのトマトソースの作り方。
使うトマトはフレッシュのイタリアントマト。なお、リマではイタリアントマト以外の生トマトや、トマト缶がほぼ売っていないため、イタリアントマト以外が選べないことを付言しておく。皮はむかず、ざく切りにする。
にんじんをみじん切りにする。これは甘みを加えるため。玉ねぎはなし。にんにくはホールでする。これらを炒める。オリーブオイルはごく少量、にんじんとにんにくを炒めるのに必要な分だけ。
にんじんやにんにくにある程度火が通ったらトマトを加えて煮込む。マッシュルームを輪切りにして加える。
10分ちょっと煮たところで味見をする。本当は数時間煮て酸味を飛ばしたいところだが、お腹が空いたから、と、この段階でメインの煮込みは終わり。
酸味を抑えるために砂糖を入れる。塊で買ってきたパルメザンチーズをおろし金で粉状にして加え、そのまま加熱しつつ混ぜてチーズを溶かす。リマには粉状のパルメザンチーズが売っていないので、この選択は強く意図的なものではない。フレッシュバジルを加える。ここにピーナッツを入れる。ハンディブレンダーでペースト状にする。これでトマトの皮も気にならなくなる。
オレンジ色の重たいソースになる。トマト、マッシュルーム、チーズの組み合わせでうま味がとても強い。思わず笑みが溢れる美味しさだった。僕はパンにつけて食べた。彼はスパゲティで食べていた。
これは彼の経歴を反映したトマトソースであるように思われた。彼自身これをトマトソースと呼んでいたが、一方で、ロメスコソースというスペインのトマト、パプリカ、ナッツのソースで特徴的なナッツの使用を踏襲している。
ところで、私もその数日前にトマトソースを作っていた(注1)。
刻んだ玉ねぎを多めの、とはいえ余裕を持って乳化できる量のオリーブオイルで炒める。油は香りの支持体。にんにくはなし。その匂いは邪魔。ざく切りにしたイタリアントマトを加える。皮むきはしない。面倒なのと、皮が残ったとしても具だと思えばいいやということで。
少し水を加えて10分程度煮る。そんなに抽象的な味にならなくてもいい。煮ている間にタイムの枝から葉っぱをたっぷりちぎって加える。バジルやセルフィーユよりタイムって夏っぽく茶目っ気がある感じがしませんか。乾燥タイムは売っていないので、生タイムを使うのは特に意図的な選択ではない。
トマトがある程度煮込まれた味になったら、煮込んだトマトとほぼ同量のトマトをざく切りにして加える。後に加えたトマトが温まったら火を止める。火を通したトマトの鈍い甘さと、ぶどうの皮や甘栗のような風味、長引くうま味の余韻の中で、半ば生のトマトの風味を楽しむ構成。生に近いトマトの方を噛むことでき、そして噛むことによる香りの広がりがあるように、ミキサーにはかけない。やや緩いトマトソースに、トマトの果肉が残ったままのソースになる。
パスタはショートパスタで。一口一口噛んで食べてほしい。
絶対に僕のトマトソースのほうが美味しい、と思い、そこで自分が食材顕在主義であることを自覚した。この場合、友人のトマトソースのように、はっきりとしたうま味と甘味の爆発で口内を満たすより、トマトの半ば火を通した風味と生の風味、タイムの風味の掛け合わせが楽しめることを上位に置くことである。むしろ、うま味を重厚にしていくような構成は嫌いだ。鮮明な美味しさより、はっきり知覚できるそれぞれの食材とその組み合わせを重視することは食材顕在主義と呼んでよいだろう。
こんなことを思い出したように書いたのは、いま滞在しているペルーのレストランのまかないで最近トマトソースパスタが出たため。
材料は、作り置きして冷凍してある炒めた玉ねぎとにんにくを山のように、にんじん、セロリ、たくさんのクミンと乾燥オレガノ。炒めた玉ねぎとにんにくの引きずるような鈍い甘味とうま味、大量のクミンと組み合わせることで強調される乾燥オレガノのくすんだ奥行きのある香りは極めてペルー料理的であるように思われた。
ソースはミキサーにかけてある。ペルーではなめらかなペーストが偏愛されているため。パスタはかなり茹で込んだロングパスタ。アルデンテのようなものは見たことがない。
トマトソースに様々な作り方があり、そこに作り手の志向が反映されているのは言うまでもないことだ。ここまで長かったが、最近楽しいと思っているのは、作り手の志向やそのレパートリーを想定することで、料理の特定のアレンジを作り、そのアレンジに合わせて作り手の志向やレパートリーの想定を理解し直す遊び。作り手の志向という概念的な推論と、自然に思われるアレンジについての具体的なイメージからそれぞれを豊かにしていく。
コクが好きで日本のものを使うあのレストランなら、たぶん、白味噌を入れる。そういう重さに忌避感があるからオリーブオイルと玉ねぎ・にんにくは控えめだろう。トマトは甘めが似合う。なんとなく白ワインビネガーを使いそうだ、そういえば酸味が多用されていた。きっちりなめらかなペースト状にする。テクスチャーは重め、常にぼってりしたお皿のイメージ。パスタはロングで、少量だけかなり高く山のように盛り付けてある。ハーブのイメージが湧かない。紫蘇を載せかねない。チーズは乗っける。
こっちのレストランは、玉ねぎとにんにくをよほどの理由がなければ使わないので、トマトソースでは使わない。油も無臭に近い太白ごま油。先に書いたレシピのように、トマトは二段階投入で、生に近いトマトを刻んだものがゴロゴロ入っている。たぶんあまり甘くない、青い香りのもの。いつだって上品。ハーブは邸宅の庭のような上品さがあるエスドラゴンを選択。ハーブを補助でなくはっきりと全面に出すように使うので、たっぷり載せてくるだろう。レストランの方向性として日本のものを入れてくるはずなのだが、味噌もみりんも、白醤油でさえも、鬱陶しそうだ、もしかして塩麹でソースにする方のトマトをわずかに漬け込んでおくかもしれない。コクは出さないが香りの膨らみは得意とするところであるように思う。テクスチャーは軽め、ショートパスタ。チーズはなし。
よく家庭料理を上手になるための方法の一つとして「ある食材について和洋中エスニックの味付けを思いつくように訓練する」というものが挙げられるが、ここでトマトソースパスタについてやってみせたのはその上位互換だろう。
「和洋中エスニックの味付け」というスケールから発想されるのは、味付けという日本の家庭料理の語彙が含意するような、主に調味料の使用だ。それに対して、作り手の志向や、レパートリーつまり料理の集合を基盤に、ある料理のアレンジを試みることは、一方で料理の全領域についての概念を動員しようとすることであり、他方で具体的な料理を手がかりにしたモノについての直感を働かせることでもある。さらに、それら二つのイメージの領域のずれから、概念とモノについての直感それら自体も拡張していく。まあ、「ある食材について和洋中エスニックの味付けを思いつくように訓練する」のほうが簡単だし、家庭料理の方法としては十分有効なのだが。
最近は自分の体が、ここに書いていない人も含めて、六人位の人に身体が住まわれているような感覚がする。正確には、この六人のうちの何人かは互いに深く影響しあっているので六人以下であり、また当然、この六人はその外側にいる人を引き継いでいるので六人以上でもある。あるいは当然だが、すべてが私の中にあるので、一人なのかもしれない。(この段落は人類学者の皆さんは流してください。)
とても楽しいことではないか、いつでも六人くらいの人が料理について言い合っていて、ひとつの料理に六つのバージョンを提示し、それに驚かされ、六人の考え方がわかるということは。
しかし、当然のことだが、この六つのバージョンのうち、少なくとも五つはフィクションだ。無理に差異を強調しているきらいもあり、信頼性も高くない。それではなぜこういったバージョンづくりを私がやってみせるのか、その説明についてはもう少し勉強するので数年待ってください。
注1 このレシピは樋口直哉さんの「時間差調理で濃厚&フレッシュなトマトソース・スパゲティ」 https://cakes.mu/posts/23568 を参考にしています。