短編小説『先輩』
あらすじ
文芸部の先輩である三好治(みよしはる)先輩を私は敬愛している。文芸部で唯一の先輩。口癖は「私は人間として出来が良すぎている……」私はそんな彼女を敬愛している。そんな先輩からある日、一つのお願いをされた……
「恥の多い生涯とはなんだと思う?」
先輩はよくこんな話を私に振っては大喜利形式にお互い答え合う。この前の最優秀作品は私が答えた「処女の力を妄信しすぎること」だった。正直、この話題はもう何百回と繰り返しているのでお互い感覚が鈍りつつある。それでもこの話題を振ってくる先輩を私は可愛いと思っている。この手記は先輩について書こうと思う。
私が先輩と初めて出会ったのは高校入学して間もない頃だった。入学シーズンは部活動の勧誘が盛んで、校門前には運動部や文化部、様々な部活動の俗にいう「イケてる人たち」が新入生に口説き文句を投げかけていた。元々、高校では文学部に入って執筆活動をしたいと思っていたので、そういう人たちへの興味はなかったのだけれど、先輩と対比するためにあえて書こうと思う。例えば、このAという男はサッカー部のマネージャーを探すために新入生の女子ばかりに声をかけている。私も例外ではなく声をかけられた(私が可愛いから声をかけたのではない。自分の評価は中の下だと思っているし、この男もそう思っているのだろう。ワンチャンいけると思い声をかけたのではないかと私は推測している。でなければ私なんかに声をかける理由もない。)が、私が終始Aの顔を見ることなく、相槌を打っていたため、察してくれた。次にBという女は、「バトミントン部とかどう?」と道行く女子生徒に声をかけていた。そもそもバトミントンではなくバドミントンだし、「とか」とは一体何を指して言っているのだろうか。その部活はバドミントン以外にも「とか」に含まれる何かをしているのか。と私の中で小さな謎が残された。
目的である文化部の部室は本校舎2階から渡り廊下を渡った先にある、部室棟3階の一番西側にある。私が初めて文化部のドアをノックしたのは放課後だったので夕日が差し込んでいたのを覚えている。
私がドアをノックすると「はい」とそっけない返事が聞こえた。私が恐る恐るドアを開けると、そこにいたのは文庫本を読むスーツ姿の女性だった。
「ここって、文芸部の部室ですよね?」
緊張を隠して質問する私に対し、彼女は「はい」と返事をする。それはドア越しに聞いた声と全く同じトーンだった。私の感覚では数分、実際は影が動くことを確認できないくらいの時間、私は無言でドアの前に立ち続けていた。その間も彼女は黙って本を読み続けている。
「新入生か?」
声は突如として私の後ろから発せられたものだった。ビクリと驚く私の肩に優しく手を置き「驚かせてすまない」と屈託のない笑顔で謝ったのが先輩だった。
「先生、多分入部希望者です。」
「はい。ではこちらの紙を渡しておきますね。私はこれで。入部が決まりましたら、その紙に必要事項を記入して三好さんに渡してください。」
事務的な会話を済ませてスーツ姿の女性は椅子から立ち上がり、私に軽く会釈をした後、カツカツと部室を後にした。
「あれは顧問の市倉先生。担当は古文。見ての通り事務的で冷たそうだけど、真面目で優しい人だよ。私の無理も聞いてもらっちゃったし」
顧問の説明をしながら先輩は椅子に座るよう私を促す。先輩と向かい合わせになるように机を挟んで椅子に座った(この時に初めて先輩の顔をはっきりと見た気がする)。長い黒髪を後ろで一つに結び、ブレザーのポケットから赤縁の眼鏡が飛び出しているのが印象的だった。顔は可愛い丸顔ではなく少し面長に見えるくらいに細く、切れ長の瞳の下には癖のないスラっと通った鼻筋と、もともとの肌の白さも相まって血が通ってないではないかと思うほどに薄い唇。おそらく、普通とはこのことを言うのだろうな、などと失礼なことを考えているとふと目が合った。
「自己紹介からでいいかな?」
「あ、すみません。はい」
先輩は2年生で部長を務めており、三好治という名前だった。好きな作家は太宰治。ちなみに先輩の名前は『はる』と読む。私の自己紹介を終えてすぐに先輩は私に入部の動機を聞いてきた。将来的に執筆活動がしたいという本来の動機に加えて、「私も太宰好きですよ。」と付け加えておいた。きっと、この一言を付け加えるか否かがターニングポイントになったのだと思う。
「本当か?人間失格は読んだ?入水ってどんな感じなのだろうな。小さいころプールで溺れたことはあるけど、もう忘れてしまった。一緒に死のうって思える相手が見つかるってどんな生活送ればよいと思う?私は誘われても……」
長かった。この後はひたすらに太宰治の人生について語っていたと思う。チャイムが鳴り(私の学校では完全下校の10分前にチャイムが鳴る)我に返って私たちは帰宅の準備を始めた。
「ありがとう。できればまた話したい。これ、良かったら記入して持ってきてほしい。私は毎日ここにいるから」
好きなことについて話している時とは別人のテンションではあったが、表情から高揚していることは伝わってくる。元々入る予定のあった私は二つ返事で「よろしくお願いします」と返した。
文芸部は部員5名の少人数の部活らしい。部室に来るのは部長の三好先輩のみで他は幽霊部員だそうだ。文化祭が近くなると、小説だけ持ち込んでくるらしいが私は顔を見たことがない。だから部室では基本的に私と三好先輩の二人で時間を共有する。
ある日、「他の部員の写真とかないんですか?」
と聞いたら渋い顔をされたことがある。
「あるにはある、が……」
先輩は今まで以上に歯切れが悪かった。
「何か事情が?」
「まぁ、簡単に言うと、名前があるだけで、本当に幽霊部員なんだ。以前、市倉先生に無理を聞いてもらったと言ったのを覚えてるかい?」
初めて、部室に入った時のことは今でも覚えている。
「あれな、実はゴーストライターを隠してもらってるんだ。他の4人は私が名前だけ借りて、文化祭の時は5人分の小説を書いているんだよ。すまないが、もしかしたら今年は手伝ってもらうことになるかも知れんな。」
先輩は去年文学部を作る際に、友人4人に名前だけ貸してくれと頼みこみ、なんとか人数を揃えたらしい。しかし顧問の市倉先生が、文化祭では全員が小説を書くことを条件に出したことにより、5人分、要するに5つの小説を先輩一人で書いているということだった。普通に考えて、すごい。私は2本と言わず3本書いて、先輩の負担を減らしたいと思った。
そうやって先輩と話している内にふと気づいたことがある。先輩は「私は人間ができすぎているのだ」やら「私は人間として出来がいい」などと真顔で口に出す人だった。否定できないのが面白いところで、先輩は学業の成績がすこぶる良かったし、友達や教師などとの人間関係も良好だった。堅苦しい喋り方をしているが、丁寧であることに違いはないので、そういった面で特徴的ではあるものの棘がない不思議な人だ。
私が入部して3か月が過ぎ、目の前に夏休みを控えていた時だった。
「なぁ、お前さんは死んでみたいと思ったことはないかい?」
先輩は私のことを「お前さん」と呼ぶ。
「ないです」
私の返事に対して先輩は少し物足りなそうに「そうか」と答えたきり黙ってしまった。この時、自殺することに対して興味を示していた先輩に私は酷く冷たい答えを提示したのでは、と私は少なからず後悔した。
「先輩はあるんですか?」
ただ会話を広げるための質問。しかし、この言葉を先輩に向けた瞬間、私は先輩に死んでほしくないと思った。
「ん?」
「死のうと思ったこと」
「ないな」
先輩は淡泊にそう答えて窓の外をゆっくりと眺めた。梅雨も明けたというのに、日差しを遮る雲が光合成の邪魔をしている。
「でもなお前さんよ」
先輩は窓の外を見ながら続けた。
「私は死のうと思ったことはないが、死んでみたいと思ったことはあるのだ」
私には先輩が何を言っているのか理解できなかった。先輩の顔を見ながら言葉を発せないでいる私に先輩は音もなく向き直り、その眼光と共に私に訴える。
「お前さんには私が自殺志願者にでも見えるのかい?」
「てっきり、太宰のように自殺をしたいのかと」
先輩は目を丸くして私を見ていた。あるいは私の目を介して瞳に映る自分を見ていたのかもしれない。
「私はな、人間として出来が良すぎるのだ。苦労がない。人生に絶望して死のうとか、腐った現実から逃れるために死のうとか、そういった願望を持つ必要がないのだよ。」
「でもさっき死んでみたいって」
私が「言ってましたよね」と続ける隙もなく、いやむしろ「死んでみたい」という言葉に重ねるように先輩は言う。
「死んでみたいというのは、死のうとか死にたいとは違うのだよ。『死』という感覚を味わいたいのだ。死後の世界とか死ぬ瞬間とか言う俗物的な『死』に対するイメージなどはどうでもよい。死後の世界とか天国と地獄とか輪廻転生とか、私にはこれっぽっちも興味はないのだよ。お前さんの言う、『死のう』という言葉の裏には『死んで救われたい』という希望や、まぁ個人の理想が詰め込まれているのだ。その先に何が待っているのかも知らずに」
会話、というよりは演説に近かった。
「私は、私はな、『死の瞬間』を知りたいのだ。何故太宰治は何度も死のうとしたのか、私にはそれがわからないのだよ。一度失敗しても尚、彼は死のうとしている。私は今の人生に満足しているわけでもなければ、不平不満も漏らしながら生きているわけもないだろう?それはお前さんの目から見てもわかるはずだ」
先輩は私の瞳に映る自分をじっと見つめながら私に説いてくる。けれど、確かに先輩は普通の人間だった。私から見ても程よく山あり谷ありの人生だ。もしこれで学年主席とかなら話は変わったが、基本的に先輩は10位以内に収まるだけで1位というものを取ったことがないらしい。
「だからね、私は『死んでみたい』としか言えないのだよ。理由も葛藤もなく死ぬこと程愚かなことはないだろう。だから私は死ねない。もしも私に残機があるなら迷わずこの窓から飛び降りているよ」
ちとっちとっ、と窓に雨粒が体当たりする音が聞こえると、先輩は窓の外に目をやった。私も気になり外に目をやると、曇った空のせいか、部屋の中が反射して私と先輩2人きりの部室が映るばかりだった。
「でもそうやって悩んでるのも、人間らしい葛藤なんじゃないですか」
私が呟くように『返答』をすると、左右反転した先輩と目が合ったような気がした。
その日はなんだか気まずくなってしまって、そそくさと部室を後にした。次の日、部室に行く準備をしていると帰りのHR(ホームルーム)で期末試験が近づいていることを担任の口から告げられた(私の学校では試験が近づくと1週間前から勉強期間として全ての部活動が活動停止となる)。私は、ふとスマートフォンに目をやって、先輩の連絡先を知らないことに気付いた。
期末試験が難なく終わり、私は試験の結果よりも先輩の様子が気になって仕方なかった。
「やぁ。お前さんは熱心な部員だな。試験が終わっていの一番にここに来るとは」
先輩はやはり私より先に来ていた。この時の私は謎の焦燥感に襲われていたのを覚えている。理由はわからないが、先輩を見て心底ほっとしていた。
「お前さんには感謝しているよ。私はな、筆を止めることができないのだ。そのおかげでテストは散々だったがな」
私は先輩の小説を読んだことがない。
「それは私も読めますか?」
「もちろんだ。お前さんから得た着想を元に書いているのに読ませないなんて失礼だろう」
私は小説を読めるという喜びと同時に、先輩の顔色が変わっていることに気付いた。おそらくこの変化は私だけが気付けたと思う。先輩自身も気付いていなかったと思う。それほどまでに執筆活動に集中していたのだと私は思っていた。
「それとな、明日から私は部室に顔を出すことはないと思ってくれ」
先輩が説明するより早く私は「執筆活動のため」と理解した。
「次に会うのは小説の中ですかね」
「……あぁ、お前さんは本当に、よくできた後輩だよ。三好治の集大成を見せてあげるよ」
「集大成って、もっと書いてくださいよ。私は先輩の小説気になります」
それからは他愛もない話をしてその日を終えた。次の日から、先輩が部室に来ることはなかった。先輩とはたまに廊下であいさつを交わすだけ。私も自然と部室へ行くことはなくなり、気づけば夏休みに入っていた。
私の後悔は、夏休み期間に先輩と連絡を取らなかったことだった。
私は私で文化祭用の小説のプロットを書いたり、課題に追われたりで、あまりに普通に夏休みを過ごしていた。そして新学期、始業式の後、私は我先にと部室へ足を運んだ。しかしそこに先輩の姿はない。
「あなたはやはりここに来るのですね」
私のことを「あなた」と呼ぶのは顧問の市倉先生だ。「これ」と私に1通の封筒を差し出してきた。
「三好さんからです。最初に、あなたが読むように、と。」
先生からの封筒は先輩からのものだった。封筒はしっかりと封がされていて、誰も開けていないことがわかる。
「この手紙を読んでいる頃、私はすでにこの世にはいないだろう。」
つまらない定型文から始まる小説だった。
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