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地元のTSUTAYAは私に「愛すべき無駄」を教えてくれた
そういえば。
先日、地元のTSUTAYAに行ったのだけど、
レンタルビデオがすっかりなくなっていた。
カラン、とした空間だけが残っていて、「あー……。」と思わず溜息をついた。
なんだか夕暮れの部活終わり、誰もいなくなったグランドのような光景を目にした気がして。
私が中学生の時、今と比べてまだ不自由だった時代。
進研ゼミの貯めたポイントで親から与えてもらったCDプレイヤーでCDを再生しないと、音楽を聴くことができなかった。(その数年後にSONYのウォークマンを買ってもらった)
地元のTSUTAYAの中に所狭しと並んだ棚の中からテキトーにCDを漁って、直感で気に入ったものをレンタルする。
当時は「10枚レンタルで1,000円!」みたいな世界線だったから、たくさん借りる方がおトクだった。
いわゆる”ジャケ買い"ならぬ、“ジャケレンタル"だったので、家に帰ってCDプレイヤーで再生するまではどんな曲かわからなかった。
再生するまでのあのドキドキ感や、「アタリだ!」と思った瞬間の高揚感は、今でも身体に染みついている。
10年以上経った今でも、当時聞いたアルバムのジャケを見るだけで、肺の底から空気がしゅわしゅわと抜けていくような安堵感。
そういえば話は少し変わるのだが、恋人との付き合う前の初デートは「東京の端っこのほうの街で集合して、TSUTAYAでビデオを借りる」というものだった。
どうしても見たい映画が配信サービスにないうえ、日本全国どこの映画館でも上映していない。
都内から程近い場所だと、その映画のDVDは”東京の端っこ"のTSUTAYAにしか存在しておらず、そこで借りる他、見る手段がないのだった。
そうして私たちは、どう考えても地元の人しか訪れなさそうな小さくて古めかしい田舎のTSUTAYAでDVDを借りた。
“上映される映画館が限られている"ということも、“レンタルしないと見ることができない映画”というのも、全国どこでも電波さえあれば見ることができる『配信サービス』とは対極にいる不便さ。
その土地まで足を運ばないと映画に出会えないということは、日常に無理やり余白を生み出さないとできない。
もしかすると、無駄な時間なのかもしれない。その時間があれば、配信サービスの映画を2本くらいは見ることができるのだから。
ただ、自らの足を使って時間を割いて、初めて待ち望んでいた『ディスクジャケットと対峙した瞬間』というのは、きっと何事にも変え難いほどの高揚感を感じるはず。
例え、"ハズレ"だったとしても『無駄』を『ムダ』にしたくないからこそ、「なぜ“ハズレ"だと思ったのか」をこねくり回しながら考える。
「よくわかんないけど、まあ面白かったな」とか、「あんまり面白くなかった」といった単調な感想だけで終わらない、ただ消費するだけではない、コンテンツとの向き合い方。
それこそが、忙しなく日々が過ぎていく私たちこそが目を向けるべき『愛すべき無駄』な気がしている。
1年が終わりそうな今、ようやく時間にゆとりができたからこそ、あえてその『無駄なこと』をやってみたい。
地元のTSUTAYAはもうなくなってしまったけれど、市内の他の店舗にはレンタルサービスがまだ残っているようだ。
久しぶりに『愛すべき無駄』を探しにいく。