【東京大空襲75年】「無差別爆撃」ではなく非戦闘員と住宅地をあえて狙った「選別爆撃」と「政治的爆撃」としての東京大空襲/「処刑」されたB-29の米兵や忌み嫌われた戦災孤児、そして国に見捨てられた空襲被害者たち
はじめに
昭和20年3月10日未明、米軍は東京の下町地区を中心に大規模な空爆を行った。いわゆる東京大空襲である。同月下旬には沖縄の慶良間諸島に米軍が上陸し、住民が戦闘に巻き込まれる悲惨な地上戦が行われるが、東京大空襲でも多数の非戦闘員が殺害された。
米軍が撮影した空襲後の東京 中央に流れる川は墨田川 手前は日本橋浜町界隈か:朝日新聞デジタル2019.3.9
東京大空襲に投入された米軍爆撃機B-29は約300機、死者は10万人を数える。投下された爆弾は、無数の焼夷弾を束ねたクラスター爆弾であり、現在では非人道的兵器とされているものである。こうした事実だけでも、東京大空襲の残虐性が理解できるだろう。
東京大空襲は、戦闘員と非戦闘員、軍需工場と一般住宅を区別せずに空襲した「無差別爆撃」ともいわれる。もちろん、そうした指弾は間違ってはいない。しかし、米軍資料を読み解くと、米軍はむしろ非戦闘員と一般住宅をあえて狙って攻撃した様子が見えてくる。その意味で東京大空襲は「無差別爆撃」ではなく「選別爆撃」ともいえる。
こうした東京大空襲の実態は、中山伊佐男「日本への住民選別爆撃の実相―米軍資料研究から」(政治経済研究所付属東京大空襲・戦災資料センター戦争災害研究室『「『無差別爆撃』の転回点―ドイツ・日本都市空襲の位置づけを問う」報告書 第3回シンポジウム』2009年)に詳述されている。
以下、同論文を参考に、東京大空襲の「選別爆撃」としての実態を解明し、その残虐性を指摘したい。
米軍資料から見えてくる「選別爆撃」
ここでいう米軍資料とは「米国戦略爆撃調査団報告書」をはじめ、日本占領期の各種の米軍資料の総称である。米国戦略爆撃調査団は、ドイツへの連合国の空爆の効果を調査するために設置されたものだが、トルーマン大統領により日本への空爆も調査するよう指示され、昭和22年までに同報告書を提出した。
そうした資料の一つである米軍による東京大空襲の『作戦任務報告書』には、同種の報告書には珍しい比較的長文の「まえがき」が付されている。そこには
これらの攻撃の目的が、都市の市民を無差別に爆撃することではなかったということは注目すべきことである。目的は、これらの4つの重要な日本の都市の市街地に集中している工業的、戦略的な諸目標を破壊することであった。
とある。しかし、この「まえがき」は正しいものなのであろうか。
そもそも米軍は、日本の各都市の住宅地域について焼夷弾爆撃の有効性を分析し、それぞれ有効性の高い順に「ZONE-R1」、「R-2」、「R-3」と三段階に分析していたことが米軍資料から読み取れる。「R」は「RESIDENTIAL=居住」の「R」であり、住宅地が地域全体の85%以上を占める地域を指している。その上で、3月10日の東京大空襲で攻撃対象とされ、大被害を出した隅田川沿いの下町地域を、「ZONE-R1」と分類していた。つまり米軍は、下町地域が住宅地であると明確に認識していたのである。
「ZONE-R1」に指定されていた下町地区の戦災が甚大であることは明瞭である:NHK戦争証言アーカイブス 古地図で見る東京大空襲
もちろん、こうした下町地域といえども小規模工場や家庭内工場も存在する。そのため住宅地一帯が一つの巨大な軍需工場であり攻撃したともいわれる。しかし米軍資料には「このような目標に対する焼夷攻撃は、確実に住民の士気に極めて有害な影響を齎すはずである」との言葉があり、軍需工場であるから戦略的に攻撃をするのではなく、住民の士気を下げるために攻撃をするという認識が読み取れる。
さらに米軍資料には、下町地区の攻撃について、
目標地域にある個々の施設の物理的な損失そのものよりも[中略]多くの工場の雇用は、死傷者や、その地域からの労働者の転出による労働力の不足や、労働者の士気の低下による直接的な影響を及ぼすはずである。
ともあり、労働力つまり住民を狙った攻撃の必要性と有効性を説いている。実際に、東京大空襲における重要目標施設であった22の工場のうち、ZONE-R1には4つしか存在していない。
こうした米軍の認識や、下町地域の無辜の民が多数犠牲になった事実を総合すれば、東京大空襲は軍需工場と非戦闘員を無差別に攻撃したのではなく、住宅地域と非戦闘員を「選別」して攻撃した「選別爆撃」だったといえる。「無差別」にせよ「選別」にせよ、その結果の重大性にかわりはないが、米軍資料を読み解くことで、非戦闘員と住宅地をあえて狙い撃ちして爆撃したという東京大空襲の残虐性と犯罪性がより明瞭になってくる。
「政治的爆撃」としての東京大空襲
東京大空襲を実行した米軍第21爆撃機集団の指揮官は、悪名高きカーチス・ルメイだが、そのルメイの上官はヘンリー・アーノルドという「鬼畜」「悪魔」とも称すべき二人の軍人である。
米空軍は第二次世界大戦まで独立した軍ではなく、陸軍の航空部隊という位置づけであった。それゆえアーノルドは空軍の独立のため、空軍主導による日本本土の空襲によって日本を降伏させる大戦果を得ようとしていた。
実際、東京大空襲に先立つ昭和20年2月、米海軍の航空部隊は東京の中島飛行機武蔵野工場を爆撃し、戦果をおさめていたが、第21爆撃機集団は目立った戦果をあげていなかった。米海軍太平洋艦隊司令長官ニミッツは、B-29の指揮権を要求し、海軍主導の日本爆撃を行おうとしていた。アーノルドは第21爆撃機集団が海軍に移管され、空軍の独立という野望が頓挫することを恐れ、部下に「結果を出す」ことを求めていた。アーノルドの焦りが東京大空襲につながったとも考えられる。
つまり東京大空襲は、軍事的あるいは戦略的な意味だけから実施されたのではなく、米軍内部での政治的判断によって行われた「政治的爆撃」といってもいいものなのである。
空襲による国民の意識の変化
米軍資料が「このような目標に対する焼夷攻撃は、確実に住民の士気に極めて有害な影響を齎すはずである」といったとおり、東京大空襲など都市の非戦闘員を狙った米軍の空襲は、日本国民全体、特に都市部の市民の戦意を打ち砕いていった。
焼け跡に残る金庫 空襲により甚大な被害を出した丸の内界隈にて 米軍撮影:朝日デジタル2019.3.9
吉田裕『アジア太平洋戦争』シリーズ日本近現代史6(岩波新書)によると、都市部の市民は米軍機になすすべのない脆弱な日本軍の防空態勢を見せつけられ、日米の戦力差を否応なく自覚させられた。また大本営が本土決戦のため特攻機を温存し、防空戦闘を制限したことも、防空戦闘機隊に対する信頼の失墜となった。
これにより都市部では多くの市民が疎開をはじめ、「〇〇日に大空襲がある」といった流言飛語が飛び交い、そのたびにリヤカーに生活物資を満載して避難するなど、パニック状態が生まれていった。そして流言飛語は政治や軍部に対する不満や批判も含みはじめ、「東条首相は国民に石を投げられている」「小磯首相が切腹した」など不穏な言動があちこちで生まれていったとされる。
他方、国民生活の窮乏も急速に進み、それは闇市場の拡大につながっていく。そして統制経済の要である軍や軍需工場自身が闇市場で闇価格の物資購入に狂奔するようになり、軍への反発が広がっていくのである。
また、空襲による大量の犠牲者の遺体の処置も大変なものがあった。あちこちに空襲犠牲者の遺体の山ができ、例えば上野公園の西郷隆盛像の周辺は遺体の火葬場となり、そこで火葬した遺骨や遺体は上野公園の一角や錦糸町の錦糸公園など、都内の公園や広場、寺社の境内に仮埋葬された。
戦後しばらくして仮埋葬された遺体・遺骨が掘り起こされ、東京都慰霊堂に安置されるなどしたわけだが、こうした光景が連日繰り返されれば、厭戦気運が高まるのはもちろんのこと、人心は荒廃していっただろう。
民間人によるB-29搭乗員の殺害や軍人による「処刑」
その証左というわけではないが、民間人による墜落し国内に落下したB-29搭乗員の米兵への暴行や殺害、あるいは軍人による違法な「処刑」なども発生している。
先ほど見たように空襲のため日本上空に進入したB-29に対する日本軍の対空砲火はほとんど有効ではなかったが、それでも複数機は撃墜されている。その際、ほとんどのB-29搭乗員の米兵はそのまま機内で墜落死したり焼死したりするが、まれに墜落した機内で生きていたり、落下傘で緊急脱出し国内に降り立つことがあった。
そうなると付近の警防団や民間人が竹槍や鎌、あるいは猟銃などを携え、米兵を追いかけて捕まえ、殴打するなどリンチをくわえることもあったそうだ。なかには恐怖と憎しみのあまり米兵を殺害する民間人もいた。このためB-29搭乗員の米兵たちは、万一の際は海面に降り立ち、米潜水艦による救助を待てと教えられたが、それでもやむなく地上に降り立つ場合は、民間人ではなく軍人に投降しろと教えられたそうである。民間人に投降すると殺されるおそれがあるが、軍人ならば最低限の国際法上の保護は与えるに違いないという判断だろう。
しかし、軍人に投降したとしても憲兵隊による厳しい取り調べが待っており、衣食住も充分に与えられず、拷問などもおこなわれたといわれる。また、その軍人が米兵を法的根拠なく「処刑」することもあった。そうした軍人は戦後、戦犯裁判にかけられている。
NHK戦争証言アーカイブスには、B-29が墜落し落下傘で降り立った米兵が大勢の民間人に追われ、暴行や殺害されたり、自ら命を絶った熊本での事件がまとめられている。
[証言記録 市民たちの戦争]B29墜落 “敵兵”と遭遇した村 ~熊本県・阿蘇~|NHK 戦争証言アーカイブス
「駅の子」─東京大空襲と戦災孤児たち
東京大空襲は生き延びた人々も、なかんずく子どもたちを不幸にした。東京大空襲や各地の都市空襲によって、あるいは引揚げ途上での病気などで多くの子どもが両親や親類を亡くし、戦災孤児となった。戦災孤児に対する行政の保護や福祉は充分ではなく、彼らは上野駅などに住み着き、やむをえず物乞いや盗みなどの犯罪によって生きていかざるをえなかった。
こうした戦災孤児を社会は「浮浪児」「駅の子」などと蛇蝎の如く忌み嫌い、時に侮蔑の眼差しで眺め、時に暴力を行使して彼らの居場所を奪っていった。そして警察や行政は「刈り込み」と称した検束で戦災孤児を拘束し、収容施設に送り込んだ。
当時の品川第五台場に設置された「東水園」もそうした収容施設の一つであり、占領軍と行政や警察が協議して設置したといわれている。管理者は東京水上警察署であり、そこから「東」と「水」で「東水園」と呼ばれたものと思われるが、警察による管理というところから、戦災孤児は実力で社会から隔離されるべき存在であり、治安上の危険因子と見られていたことがわかる。実際、この頃の第五台場(後に第一台場へ移転)は橋も架かっておらず、戦災孤児は事実上「島流し」にされたといえる。
昭和22年の品川台場周辺の空中写真 第五・第一台場が「島」であることがわかる なお現在は第五・第一台場一帯は全て埋め立てられ陸続きとなっている:国土地理院
「東水園」での生活は厳しく、監督する警察官は鞭をふるって戦災孤児に懲戒をくわえたそうだ。脱走する戦災孤児もいたが、橋がないため対岸まで泳がざるをえず、溺死する事例もあったといわれている。
現在、移転後の「東水園」があった第一台場には、外国人への様々な人権侵害が指摘されている東京入管がある。戦災孤児から外国人、社会にとって異質なものに対して徹底的に「刈り込み」を行い、「島流し」にして排除する日本社会の「かわらなさ」を垣間見るようだ。
おわりに
東京大空襲より75年。今なお焼夷弾による火傷など、身体に重篤な傷害を負って苦しむ人々がいる。また、東京における空襲は3月10日以降も大々的におこなわれ、さらに東京以外でも全国が空襲空爆のターゲットとなった。そうした人々や遺族に対し、国による補償・救済は一切なされていない。戦後、軍人軍属への補償や援護は累計で数十兆円におよぶが、民間人の空襲被害者への救済を国は頑なに拒否している。
サンフランシスコ講和条約により国は米国への国家としての請求権を放棄しており、国に空襲被害者救済の義務はないが、サ条約によっても米国による空襲という不法行為に対する被害者の個人請求権は残っており、それに基づいて請求すればいいというのが国の主張のようである。個人で勝手に米国を訴えろ、というのが国のスタンスなのである。
この国のスタンスは、実は韓国人元徴用工による日本企業への訴訟、いわゆる徴用工訴訟と同一の論理である。国家としての請求権はないが不法行為に対する個人の請求権は残っている、と。そうであれば国が韓国人元徴用工の主張を受け入れ、何らかの救済措置ができれば、それをモデルケースとして米国による空襲被害者に対する救済という展望も切り開けるかもしれない。
いずれにせよ空襲被害者の補償に関する訴訟では、司法は被害者の申し立てを退けながらも、国に対し立法措置による救済を促しており、速やかな措置が求められている。
あらためて米軍による「選別爆撃」「政治的爆撃」としての東京大空襲の残虐性や犯罪性を指摘するとともに、日米両国が空襲など自国の戦争犯罪の加害と被害に向き合い、戦争の惨禍を繰り返すことを防ぎたい。