【東京大空襲74年】「無差別爆撃」ではなく非戦闘員と住宅地をあえてターゲットとした「選別爆撃」としての東京大空襲
はじめに
昭和20年(1945)3月10日未明、米軍は東京の下町地区を中心に大規模な空爆を行った。いわゆる東京大空襲である。45年3月下旬には沖縄慶良間諸島への米軍上陸も開始され、非戦闘員が戦闘に巻き込まれる悲惨な地上戦が行われるが、東京大空襲でも多数の非戦闘員が殺害された。
東京大空襲に投入された米軍爆撃機B‐29は約300機、死者は10万人を数える。投下された爆弾は、無数の焼夷弾を束ねたクラスター爆弾であり、現在では非人道的兵器とされているものである。こうした事実だけでも、東京大空襲の残虐性が理解できるだろう。
東京大空襲は、戦闘員と非戦闘員、軍需工場と一般住宅を区別せずに空襲した「無差別爆撃」ともいわれる。もちろん、そうした指弾は間違ってはいない。しかし米軍資料を読み解くと、米軍は、むしろ非戦闘員と一般住宅をあえて狙って攻撃したとも考えられる。その意味で東京大空襲は「無差別爆撃」ではなく「選別爆撃」ともいえる。
こうした東京大空襲の実態は、中山伊佐男「日本への住民選別爆撃の実相―米軍資料研究から」(政治経済研究所付属東京大空襲・戦災資料センター戦争災害研究室『「『無差別爆撃』の転回点―ドイツ・日本都市空襲の位置づけを問う」報告書 第3回シンポジウム』2009年)に詳述されている。以下、同論文を参考に、東京大空襲の「選別爆撃」としての実態を解明し、その残虐性を指摘したい。
米軍資料から見えてくる「選別爆撃」
ここでいう米軍資料とは「米国戦略爆撃調査団報告書」をはじめ、日本占領期の各種の米軍資料の総称である。米国戦略爆撃調査団は、ドイツへの連合国の空爆の効果を調査するために設置されたものだが、トルーマン大統領により日本への空爆も調査するよう指示され、昭和22年までに同報告書を提出した。
そうした資料の一つである米軍による東京大空襲の『作戦任務報告書』には、同種の報告書には珍しい比較的長文の「まえがき」が付されている。そこには
これらの攻撃の目的が、都市の市民を無差別に爆撃することではなかったということは注目すべきことである。目的は、これらの4つの重要な日本の都市の市街地に集中している工業的、戦略的な諸目標を破壊することであった。
とある。しかし、この「まえがき」は正しいものなのであろうか。
そもそも米軍は、日本の各都市の住宅地域について焼夷弾爆撃の有効性を分析し、それぞれ有効性の高い順に「ZONE-R1」、「R-2」、「R-3」と3段階に分析していたことが米軍資料から読み取れる。「R」は「RESIDENTIAL=居住」の「R」であり、実際に住宅地が地域全体の85%以上を占める地域を指している。その上で、3月10日の東京大空襲で攻撃対象とされ、大被害を出した隅田川沿いの下町地域を、「ZONE-R1」と分類していた。つまり米軍は、下町地域が住宅地であると明確に認識していたのである。
もちろん、こうした下町地域といえども小規模工場や家庭内工場も存在する。そのため住宅地一帯が一つの巨大な軍需工場であり攻撃したともいわれる。しかし米軍資料には「このような目標に対する焼夷攻撃は、確実に住民の士気に極めて有害な影響を齎すはずである」との言葉があり、軍需工場であるから戦略的に攻撃をするのではなく、住民の士気を下げるために攻撃をするという認識が読み取れる。
さらに米軍資料には、下町地区の攻撃について、
目標地域にある個々の施設の物理的な損失そのものよりも[中略]多くの工場の雇用は、死傷者や、その地域からの労働者の転出による労働力の不足や、労働者の士気の低下による直接的な影響を及ぼすはずである。
ともあり、労働力つまり住民を狙った攻撃の必要性と有効性を説いている。実際に、東京大空襲における重要目標施設であった22の工場のうち、ZONE-R1には4つしか存在していない。
こうした米軍の認識や実際に下町地域の無辜の民が多数犠牲になったことを総合すれば、東京大空襲は軍需工場と非戦闘員を無差別に攻撃したのではなく、住宅地域と非戦闘員を「選別」して攻撃した「選別爆撃」だったといえる。「無差別」にせよ「選別」にせよ、その結果の重大性にかわりはないが、米軍資料を読み解くことで、非戦闘員を狙い撃ちして爆撃したという東京大空襲の残虐性と犯罪性がより明瞭になってくる。
「政治的空襲」としての東京大空襲
東京大空襲を敢行した米軍第21爆撃機集団の指揮官は、悪名高きカーチス・ルメイだが、そのルメイの上官はヘンリー・アーノルドという軍人である。
米空軍は第2次世界大戦まで独立した軍ではなく、陸軍の航空部隊という位置づけであった。それゆえアーノルドは空軍の独立のため、空軍主導による日本本土の空襲によって日本を降伏させる大戦果を得ようとしていた。
実際、東京大空襲に先立つ昭和20年2月、米海軍の航空部隊は東京の中島飛行機武蔵野工場を爆撃し、戦果をおさめていたが、第21爆撃機集団は目立った戦果をあげていなかった。米海軍太平洋艦隊司令長官ニミッツは、B-29の指揮権を要求し、海軍主導の日本爆撃を行おうとしていた。アーノルドは第21爆撃機集団が海軍に移管され、空軍の独立という野望が頓挫することを恐れ、部下に「結果を出す」ことを求めていた。アーノルドの焦りが東京大空襲につながったとも考えられる。
つまり東京大空襲は、軍事的あるいは戦略的な意味だけから実施されたのではなく、米軍内部での政治的判断によって行われた「政治的空襲」といってもいいものなのである。
「選別爆撃」と国民の意識・生活
米軍資料が「このような目標に対する焼夷攻撃は、確実に住民の士気に極めて有害な影響を齎すはずである」といったとおり、東京大空襲など都市の非戦闘員を狙った米軍の空襲は、日本国民全体、特に都市部の市民の戦意を打ち砕いていった。
吉田裕『アジア太平洋戦争』シリーズ日本近現代史6(岩波新書)によると、都市部の市民は米軍機になすすべのない脆弱な日本軍の防空態勢を見せつけられ、日米の戦力差を否応なく自覚させられた。また大本営が本土決戦のため特攻機を温存し、防空戦闘を制限したことも、防空戦闘機隊に対する信頼の失墜となった。
これにより都市部では多くの市民が疎開をはじめ、「〇〇日に大空襲がある」といった流言飛語が飛び交い、そのたびにリヤカーに生活物資を満載して避難するなど、パニック状態が生まれていった。そして流言飛語は政治や軍部に対する不満や批判も含みはじめ、「東条首相は国民に石を投げられている」「小磯首相が切腹した」など不穏な言動があちこちで生まれていったとされる。
他方、国民生活の窮乏も急速に進み、それは闇市場の拡大につながっていく。そして統制経済の要である軍や軍需工場自身が闇市場で闇価格の物資購入に狂奔するようになり、軍への反発が広がっていくのである。
おわりに
東京大空襲より74年の月日が経とうとしているが、いまなお焼夷弾による火傷など、身体に重篤な傷害を負って苦しむ人々がいる。あらためて米軍による「選別爆撃」「政治的空襲」としての東京大空襲の残虐性や犯罪性を指摘するとともに、日米両国が空襲など自国の戦争犯罪の加害と被害に向き合い、戦争の惨禍を繰り返すことを防ぎたい。
画像:産経ニュース2015年3月14日より
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