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ビデオゲームは最高の娯楽だぜ
ゲームの何が良いって、創作の中に存在した上で、自ら考えて行動して成し得たその体験や思い出を通して、自分のことを認められる、好きになれるところだと思います。現実逃避でなくそれは確かな力になると思いたい。
— 松澤ネキ(松澤千晶) (@chiakinman) November 24, 2024
松澤ネキの金言。
この投稿を見て、私が何故ビデオゲームが好きなのかを改めて考えたいと思った。
過去の記事でも何度か触れているが、まず家庭環境の影響がデカいってのはある。生まれた頃からある程度のゲーム機(ファミコン・スーファミ・メガドラ・PCエンジン・ゲームギア・ゲームボーイ)とソフトが揃っていて、サブスクよろしくいつでも遊び放題な環境にあった。背が伸びるにつれてプレステやサターン、64などの次世代機も次々と導入され、歳の離れた兄弟がいることの恩恵は生まれて間もないクソガキをあっという間にゲーム好きへと仕立て上げた。
ビデオゲームは総合芸術だと個人的に思っている。
小説・漫画・映画・アニメ・舞台などこの世には様々なアートやカルチャーが存在しているが、そのどれもが視覚聴覚またはその両方を用いて受動的にコンテンツを享受するものである。
しかし、ビデオゲームというものは上記のそれらに加えて「自ら操作を行う」という他にはない能動的な体験価値を有しており、自分の指先一つで「まるで自分がその世界で生きている」ような気持ちにさせてくれる。これが私にとって堪らなく嬉しいのだ。
恥ずかしながら(別に恥じるようなことでもないとも思うんだが)、私は小説を沢山読んだり映画を沢山観るような選択をしてこなかった。受動的なコンテンツはどうしてもムズムズしてしまい、落ち着かないのだ。そりゃ好きな小説や映画は勿論あるけども、自ら積極的に作品に触れようとしてこなかった。頁を捲ったり、画面の前でじっとしているよりかはコントローラーを握りたいのだ。
加えてそれらの媒体は「物語を追う」ことを主体としているので、どうしても客観的な目線になってしまい登場人物への共感や投影が個人的にはどうしても希薄になってしまう。それがゲームになると「主人公=自分」という"同じ目線"に立てるので依然のめり込もうと思ってしまう。
また、単にゲームといっても様々なジャンルがあるが、私が特に大好きなのはRPGだ。「ロールプレイ」という名を持つ通り、自身を作中の人物や役割(ロール)に投影する行為はビデオゲームという媒体と非常に相性が良い。元はボードゲームが発端ではあるが、コンピュータ技術の発展により家に一人で居ても空想の世界に浸れるようになったのは本当に有難いことでしかない。
冒頭に貼った松澤ネキの言葉にある「自ら考えて行動して成し得たその体験や思い出を通して、自分のことを認められる、好きになれる」というのは本当にその通りで、例えばドラクエ1でりゅうおうを倒し、アレフガルドに平和を齎したとしても、作中の世界で褒め称えられるのはゆうしゃ本人でしかない。しかし、そのゆうしゃ本人はプレイヤー自身でもあるのだ。ラダトーム王から贈られる感謝の言葉は、画面を介してコントローラーを握っている存在にも確かに伝えられている。
プレイヤーにとってこれ程栄誉なことがあるだろうか。
(たけしの挑戦状とかいう例外もあったりするけどね)
”経験値”というものもゲームシステム上は単なる記号でしかないが、それでも実際プレイヤーにも経験値というのは与えられている筈だ。その積み重ねが次なる強敵との対峙に役立ち、最終的に世界を救うための糧となる。
私が何故ビデオゲームが好きなのかってのは、「このゲームをクリアしたのはお前だ!」みたいな自身を肯定してくれる要素がかなりデカい気がしてるんだよな。そりゃものによっては達成感のない後味の悪いシナリオとかもあるんだけれども、それでも「そこに至るまでに必死こいて乗り越えてきた自分」が残る訳で。
他の娯楽にも言えることなのかもしれないが、ビデオゲームは単なる娯楽ではない。考えて苦しんで登場人物に感情移入して、やっとの思いでクリアまで成し遂げられた時に得られる感動は何ものにも代え難いし、私のような自己肯定感が低い人間こそ”自信”を身につけられる数少ない手段の一つとも思えるのだ。
私にとってゲームとは最早アイデンティティなんだろうな。
これからも色んなゲームを遊んで色んな体験をし、色んな世界を体験していきたいぜ。
おわり。
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