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人の死を悼む言葉は簡潔でいいものなのか

「ご冥福をお祈りします」という言葉が苦手だ。
正確には誰かの訃報に対して「ご冥福をお祈りします」という一言だけ告げる人が苦手だ。人が亡くなっているのにその言葉だけで済むわけがない。

上記投稿は、私が思っている事をかなり明確に言語化している。
引用元では「気持ち悪い」とすら述べているが、流石にそこまで思っている訳ではないものの、だいぶ距離を置きたい言葉であることには間違いない。

では一々「故人に対しての言葉」を一通り用意しなければならないのかと聞かれると微妙なんだよな。無理矢理悼む想いを言語化させるのも違うし。でもその一言だけ発するのはどうしても違和感がある。どうしたもんかね。

だから私の場合は大抵の場合「何も発しない」という選択を選んでいる。冥福を祈る気持ちは前提にあるが、その行為だけを言葉にしたくないし、言葉にするとしても物凄い量になってしまいそうだから。気持ちがあればOKというのも何か違うが、自分の中に留めているだけでも追悼の意は故人に伝わると思うんだよな。なので無理に発する必要もない。

特にTwitter上だとそういう気持ちがインスタントに感じられる気がする。テキストを入力して投稿ボタンを押すだけで済むものじゃないのに、例えば誰かが亡くなった報せを載せたツイートのリプ欄にはズラーっとその言葉が並んでいるのをみた時に「もう少し何か伝えられる事はないのか」と勝手に思ってしまう。

ただ、当然「何も言葉が出ないけど、とにかくそれだけ伝えたい」という人も勿論いるだろう。そういう人の気持ちまで否定はしたくない。

なんか、誰かが亡くなった時やその人の死に関して多くの人が無意識に”行儀の良さを持たなければならない”という不文律を抱えているんじゃないかと感じている。テキストでこの感覚を説明するのは非常に難しいのだけれども。

当然、死は悼まれるべきだし、誰もがその人のことを大切に想ってほしい。だけどその行為の根源が「人が亡くなったから行儀良くしなくちゃ」みたいな意識なのは違うだろ、というか。「その人がいなくなってしまって悲しい」「もっと長生きして幸せに暮らしてほしかった」などといった気持ちがあるなら納得は出来るんだけれども。

例えば、あまり関わったことのない親戚の葬儀に出席したとして、果たして自分は涙が出るのだろうかと正直思っている。関係性が薄い人に対する感情はどうしても浅いところでしか働かない。ただ、そこで真顔でいたら周りからは「何故こいつは悲しい顔一つもしないんだ」と思われることだろう。そういう時に悲しんだ振りをするのは正しいことなのだろうか。

そういう「行儀を良くしなきゃいけない」という気持ちをどうしても感じてしまうんだよな。言葉一つ出すにしても、気持ちや感情がなければパフォーマンスにしかならない。そしてそれは時に死者に対する侮蔑になりえる。だから安易に「ご冥福をお祈りします」という言葉は使いたくないって話ですわ。

生や死に関する話題はどうしてもセンシティブなものなので、書こうかどうか迷ったがちゃんと考えを残すことにした。似たような感覚の人に伝わってもらえれば幸いです。

おわり。


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