【明治の歴史物語】大江卓とマリア・ルス号事件
外交未熟な明治日本を救った行政官
鎖国を解いたばかりの明治日本、
それまで海外諸国との交流に乏しかったものですから、
とにかく外交が苦手でした。
とくに欧米列強と呼ばれる
世界でもトップクラスの強国たち相手には、
自由貿易がどうの国際儀礼がどうのと言われても、
何もわからないし、分からなければ、
相手に合わせるしかなく、
よその国と揉めるようなこともなるべく避けるようにして、
「まずは内政優先でいこう」
というのが明治日本の方針でした。
「内を強くして外に対抗する」戦略といってよいかもしれません。
そんな、外交未熟な日本のことを試すような事件が、
明治5年に起きてしまいます。
「マリア・ルス号事件」です。
清国人奴隷を積み込んだ外国籍の船が、
横浜港に不時着岸したことで、
「お前の船には奴隷が載っているだろ。日本では違法だ。すぐに解放しろ」
「それは内政干渉ですよ?! おたくらには関係ない」
などと、日本と外国船との間でスッタモンダがあった事件です。
横浜に駐在していた欧米諸国の領事も巻き込み、
大きな国際紛争に発展しました。
最終的にこの一件は、
国際圧力に屈しなかった
日本側の“勝利”
ということで終わりましたが、
実は、日本政府が積極的に乗り出して解決したものではありません。
「大江卓」という、
当時の神奈川県権令(今で言う神奈川県副知事)が
その手腕でもって一人で片づけてしまったのです。
日本政府の貢献をいうならば、
ただ一人、外務卿の副島種臣が大江の後ろ盾となり、
政府内で強固に支持してくれたことでしょう。
と言ってもやはり、
マリア・ルス号事件を日本側の勝利として
歴史に刻ましめたのは、
同調圧力に屈しない気概と胆力、
大切な価値観のためには決して信念を曲げない勇気、
そして、当時まだ浸透していなかった“人権”尊重の思想をもって事にあたった
大江卓に他なりません。
明治初期に日本を揺るがした
「マリア・ルス号事件」とは
どのようなものだったのでしょうか?
突如として横浜港に現れた異国船
明治6年6月4日(1872年7月9日)、
横浜港の錨地からやや離れた港口に碇を下ろした
ペルー船籍の「マリア・ルス号」は、
清国人230名を載せた“奴隷船”でした。
なぜ、奴隷船ということがわかったかと言うと、
一人の乗組員が脱走し、
近くに停泊していた英国軍艦に、助けを求め、
この事実がイギリス側から日本政府へ報告されたためです。
脱走者は清国人で、名を「モクヒン」と言い、
驚くほど憔悴した姿で、船内の窮状を訴えました。
知らせを受けた日本政府に、動揺が走ります。
よく調べてみると、この船は、
マカオで清国人と労働契約を結び、
ペルーへ向けて航海中とのこと。
たまたま途中に遭難したせいで、横浜港に緊急着岸しましたが、
日本側が、ペルー船がマカオで清国人との間に結んだ労働契約の話に、
首を突っ込める道理はなく、
下手に騒ぎ立てると、
内政干渉だ!
と、ペルーだけでなく、
横浜に駐在する
ポルトガルやフランス、ドイツ、アメリカといった、
世界の強国を代表する領事たちから、
非難されてしまいます。
司法卿の江藤新平も、
神奈川県令であり政府の閣僚でもあった陸奥宗光も、
ここで事を荒立てるのは得策じゃなく、
今は「内政」を重視しべしと、
不介入を訴えました。
政府の大半はこれと同じ意見でしたが、
ただ一人、
外務卿の副島種臣だけは、
「日本は主権国家である。日本の主権下で違法である人身売買が疑われる以上、日本の法でもってペルー船を裁くべきである」
と、断固として積極介入を主張しました。
最終的には副島の主張が通り、
マリア・ルス号で何が起きているのか、日本側が調査することになったのです。
こうして外務省より、管轄の神奈川県に調査命令が下され、
その全権は、参事の大江卓に委ねられたのでした。
(事件審理の途中で大江は権令に昇格)
ちなみに、当時の日本はまだ司法が完全に独立しておらず、
裁判権は、地方の行政長官が握っていました。
神奈川県の行政長官は県令の陸奥宗光でしたが、
彼は政府の仕事に追われ、東京を離れられない状態。
ナンバー2である県権令の内海忠勝も、
欧米を視察中の岩倉使節団に同行していたため、日本を留守にしています。
したがって、本件を審理する権限と責任、
いやもっといえば、
奴隷船に詰め込まれた清国人230名の運命がどうなるかは、
大江卓一人の手にかかっていたのです。
繰り返される人類の罪「奴隷貿易」
さて、神奈川県で裁判にかけられることになった
マリア・ルス号事件ですが、
出頭命令を受けて県庁内の臨時法廷にやってきたモクヒンと、
船長のヘレイロとでは、
言い分が真っ向から対立しました。
モクヒンの主張するところでは、
この度の契約は全く意図に反することで、
だまされて船に載せられてしまった。
挙げ句、船内ではひどい虐待が横行している。
こんな不法なことは許されるはずもなく、
どうか一刻も早く我々を解放し、
清国に返してほしい。
一方、ヘレイロの言い分は、
清国人が言うことを聞かず、
契約に違反して脱走を試みるので、
やむなく取り締まりのために手を出すことはあったけれど、
それを虐待とされるのは心外だ
清国人が一人残らず脱走してしまえば、
当方に大きな損益が発生してしまうが、
その穴埋めは誰がやってくれるのか?
日本政府か?
そして、
我々があたかも、清国人たちを無理やり連行しているように言われるが、
我々は、マカオからの出港を管理するポルトガル当局の許可を得て
航海している。
つまり、我々がやっていることは、
現地のマカオと、その保護国ともいうべきポルトガルと、
契約を結ぶペルーでは、合法なのだ。
なのに、一体どうして、何の道理があって、
日本政府が口を挟むのか。
ヘレイロの批判の矛先は、日本政府と大江にも向けられました。
大江は、実のところ、この裁判が開かれる前から、
「無法なことが行われている」
と、静かな憤りを感じていました。
アフリカ大陸で黒人奴隷を集め、
アメリカ大陸や、欧米列強の植民地に労働資源として送り出す
奴隷貿易は、下火になっていたとはいえ、
一部ではまだまだ盛んだったのです。
アメリカやイギリスが、過去の反省から、
「黒人の奴隷貿易はもうやめにしよう」
と言い出したのはよかったものの、
大きな利益を生み出してきた黒人奴隷を
美味しい思いをしてきた人たちが
急にやめられるはずもなく、
黒人がダメなら清国人で、
北米がダメなら南米で、
という調子で、相変わらず勝手なことが行われていたのです。
今度の話も、ポルトガルの保護領であるマカオに
集められた清国人たちが、
新たに発見されたペルーの鉱山で苛酷な労働を課されるという、
黒人奴隷の時代から何も変わっていない人権蹂躙が跋扈していたのです。
差別根絶に強い信念をもって行動する男
大江は、「人間はみな平等であらねばならない」
という思想に確固たる信念を抱く人でした。
彼は神戸に在住していたとき、
「えた・ひにん」と呼ばれた人たちが暮らす
賤民部落と遭遇し、
被差別部落の現実に触れて部落解放の志を抱き、
民部省に出仕するとさっそく
被差別部落の実生活を調査し、
「賤称廃止の建白書」を提出。
この動きが、被差別部落を禁止する「布告第六十一号」の公布へと実ります。
そこには、このような文言があります。
「えた・ひにんの称を廃し、今より身分職業とも平民同様たるべきこと」
このように、大江は人権問題に
並々ならぬ関心を抱く政治家でありましたから、
このたびの清国人奴隷らも
人権無視の状況から保護されなければならない
と考えていました。
とはいえ、裁判官である大江に私見、私情は許されず、
あくまで公正中立に、あるがままの事実をもとに判断するため、
部下の神奈川県役人や、アメリカ人の調査員を
マリア・ルス号に派遣して実態調査させ、
船内に詰め込まれた清国人に下船を許し、
自由にものが言える環境下で証言させ、
船内でいかに非人道的な暴虐が横行しているかを
一つひとつ明らかにしていきました。
道義を超えて立ちはだかる“法律の壁”
ただ、いくら人道的に間違ったことが行われている
実態が暴露されても、
虐待や暴行、人身売買が日本では違法であっても、
国内法でペルー船内を処罰するのが難しい、
というのが国際的な法的認識であります。
この壁を突破しない限り、
大江は、騙されてペルーの強制労働の現場に
連行されようとしている
清国人たちを救助できません。
大江が苦慮しているところへ
船長ヘレイロはさらに「法律」を武器に攻勢に出る。
「条約未済国の人民に関する事件は、各国領事立ち合いの上、これを処分す」
とかかれた「横浜居留地取締規則」を持ち出し、
横浜に駐留する欧米諸国の領事を裁判に立ち会わせ、
大江に圧力をかけ、さらに、
フランス、ポルトガル、ドイツ、アメリカ、イタリア、ベルギー、オランダ、デンマークの各国領事署名で
「日本は内政干渉をやめよ」とする大江宛の抗議文を出させることに成功。
それだけでなく、
イギリスの弁護人をつけ、
大江に対しこのように批判させます。
「人身売買は日本では違法というが、おたくには“娼妓制度”という人身売買がまかり通っているではないか」
これには、さすがの大江も
二の句が継げませんでした。
確かに、国内では、
貧しい家の娘が、
身売りされ、
遊女になる実態があります。
こうなると、人身売買を違法とする日本側の主張も
何ら説得力を持たないものとなってしまいます。
日本政府も、裁判の分が悪いと見たか、
行政と司法を独立させ、
マリア・ルス号事件の所管を
神奈川県から中央へ
移管しようとする動きを見せ始めます。
裁判を政府が仕切り、無難に片付けてしまおう、
との算段であるのは間違いありません。
しかし、ここは外務卿の副島が
断固として移管を拒否。
神奈川で孤軍奮闘する大江にとって、
副島は唯一の援軍でした。
このように、大江は、
内からも外からも、包囲される状況になるわけですが、
それでもなお、
「人間を奴隷扱いにするような真似は許されない」
「清国人たちは救助されなければならない」
という信念はゆるがず、
「日本に人身売買の実態があるなら、これを取り締まる法律をつくればいい」
と、政府に働きかけ、
大蔵省から婦女の売買に遺憾を示す建白書を引き出すなど、
国内の娼妓制度に関する法整備を急ぎます。
余談ですが、この動きが、
明治5年10月に出された娼妓解放令ともいうべき
「太政官布告第二百九十五号」へとつながるわけです。
天は自ら助くる者を助く
人はみな、平等でなければならない。
人権の蹂躙を許すようなことは、あってはならない。
その信念のために、日本政府や各国領事から反対されても
裁判をあきらめず、
主張に不備があれば、
ただちに修繕のための行動を起こす。
明治5年8月25日、大江が下した判決は、
ずいぶんと思い切った内容でした。
「マカオで交わされた契約書の無効」と
「清国人乗組員の全員解放」
最大の焦点であった、「マカオの契約を国内法で裁けるか」という点について、
万国公法から次のような法解釈を引用します。
「<出身国の法律>と<裁判を行う土地の法律>が衝突するときは、後者が優先される」
つまり、マカオで結ばれた契約であっても、
その当事者たちが異国の地で、
契約の合法性を巡って争い、
裁判を起こした場合、
裁判が行われる異国の司法、
このケースでは、日本の法律の拘束力に縛られる、ということです。
大江は、この現地法優先の法律思想の典拠を示し、
見事に内政干渉の批判を退けることに成功しました。
徹底して調べ上げれば、
外国の法で動く外国人を、国内法で裁いても
内政干渉にあたらないとする
国際法の論拠はあったのです。
不屈の精神で正義を貫こうとした大江に、
天が味方したのでしょう。
大江が、マカオにおける契約を
人身売買であるとして無効と断定したのは、
契約書に以下のような文言があったためです。
「万一、雇用せしペルー人死去せば、この約定を同人の後嗣あるいは、ゆずりわたすべき人にゆずりわたすことを約す」
大江は、この、人を人とも思わない
人権無視の文言を捉え、
「この約定に縛られし者は人にあらず、家具にひとし」と断罪。
人身売買を禁止する国内法に照らし、マカオで結ばれた契約の無効を宣言したのです。
日本に娼婦契約なる実態はあっても、
江戸時代に公布された「新律綱領」という
人身売買を禁止する法律があり、
これが大江の主張をかろうじて支える方杖となりました。
これもまた、
何としてでも人身売買の非道から
弱者を守らねばならないとする
大江の執念の勝利
マカオの契約は、無効
不当な契約を結ばされ、
意に反して異国の地へ
連行されそうになっていた清国人は、
自由の身となったのです。
この判決は、当然ながら
大きな波紋を呼びました。
ヘレイロが不服を申し立てたのはもちろん、
裁判に立ち会った各国領事のほとんどが
大江の判決に異議を唱えました。
国家として奴隷貿易に反対する
イギリス・アメリカは、さすがに賢く、
足並みそろえて騒ぎ立てると内政に響くと見たか、
最後まで静観の構えでした。
この後、日本は、ペルーから
清国人労働者を失ったことで
自国の民間会社に大きな損益が出たとして
損害賠償訴訟を起こされますが、
ロシアが仲裁に入った国際司法裁判で
勝訴を勝ち取っています。
ペルーの申立は棄却され、
日本側の主張が
国際社会からも「是」とされたのです。
清国政府からは、感謝の特使が派遣され、
副島外務卿ならびに大江権令に厚く謝意。
暴力から解放された清国人らの喜びも、
ひとしおだったに違いありません。
最後に
外交未熟な日本は、
大江卓という、
人権意識が国際的にも乏しかった時代に、
人権の尊さを誰よりも理解していた稀有の政治家に
救われた
と言わねばなりません。
それにしても、大江の奮闘劇は見事なものでした。
大江は判決直後の9月、
「娼妓解放令」を神奈川県下に論達。
この動きは、国内はもちろん
海外のどの国にも先駆けたものとして、
特筆に値します。
大江は、ただ「人権は守らなければならない」と、
自分の思想を主張するだけでなく、
政治家として、人権が守られる法的基盤を確立するなど、
有言実行の人でした。
この後、被差別部落解放運動にも身を投じ、
その生涯はまさに、
人権と平等を守るためにあった
という印象を受けます。
大江が政府からの横やりにも、国際的な外圧にも、
屈せずに信念を押し通せたのは、
絶対に守らねばならないものがあったから
残念ながら、
そのように大江が粉骨した
娼妓解放や被差別部落問題も、
完全にすべて解決するのは、もうしばらく後の時代となります。
法律一つできたからといって、
オセロのようにそれまでの状況がひっくり返るほど
社会は単純ではありません。
しかし、長い時間の目、
歴史の目で見れば、
人権を尊重する価値観は当たり前となり、
あからさまなひどい差別は解消され、
平等も法律できちんと保障され、
社会は百年前より着実に進歩しています。
世界的にみれば、この後、奴隷貿易も姿を消しました。
大江卓をはじめとする
社会を変える運動に携わってきた
多くの先人たちの努力の産物です。
それは自然と変わったわけじゃなく、
変えようとした人たちがいたからこそ
変わったという事実を
歴史によって知ることができます。
社会や国に絶望したくなることもありますが、
変わるときは必ず来ます。
ただ、変わらない「今を見るだけ」の目だと、
「変わらない」と決めつけ、その現実が強化されます。
ほんの少しだけですけど、「歴史の目」は、
希望を照らす光になります。
予想外に長文となってしまいました(笑)
しかし、これでも省略は多く、不十分不完全な感は否めません。
反省しきりです。
ここまで長文にお付き合いいただき
ありがとうございました。
参考文献:マリア・ルス事件:大江卓と奴隷解放(有隣新書) 武田八洲満著
大衆明治史:国民版(汎洋社) 菊池寛著
郷土神奈川(論文:大江卓と近代女子教育の曙 福田須美子)
※いずれも国立国会図書館デジタルコレクション