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政治を語ると命を失う時代、友達をなくす時代

吉田松陰は反幕行為の嫌疑をかけられ、評定所で訊問を受けた際、役人に己が正しいと信じる国家として歩むべき政道を説いた。それを聞いた役人は怒り、「卑賤の身にして国家の大事を議すること不届きなり」と問責した。武士でもない卑しい身分の者が幕政に口を差しはさむとは何事だ、と松陰の言動をとがめたのだ。

松陰と幕吏のやり取りからわかるのは、江戸時代では庶民が国を憂えて政治を語ることはご法度だった、ということだ。

武士階級でもない百姓や町人、商人が御上の政治に口を出すなどもってのほかで、幕政批判でもしようものならお縄となり、厳しい訊問と裁きを受けた。幕政批判は武士でも幕法に触れる。死罪になってもおかしくない。ひどいときは連座の罪で身内も裁かれた。

かつてそんな時代があったのだ。徳川支配が260年も続いたのは、家康以来の国法ともいうべき「民は政治によらしむべし、知らしむべからず」(民は政治に依存させ、中身については知らせるな)が徹底された結果である。

ひるがえって現代社会の今。私たちは民主主義の時代を生きている。選挙権があるし、立候補する権利もある。国家の大事を議するどころか、自ら市政や町政、国政に参加できる権利だって持っている。

が、「政治を語ってはならない」的な空気がまん延する風潮は一体どういうことだろう。

もちろん法規制があるわけじゃない。政権批判したからといって命をとられるわけじゃない。でも、人がいる場所や公の場ではみんな口をつぐむ。

しかもそんな空気を作り出しているのは為政者じゃなく民の側だというのはこれ如何に。

その一方で、国民が政治に関心を持たない世の中は何とかしなければならない、とする空気も存在する。じゃあ具体的にどんな解決策があるかとなったら、よい案がなくみんな頭を抱える。

こういうのはどうだろう? 江戸時代に戻り「政治によらしむべし、知らしむべからず」を国法にしてみる。こうすればさすがの日本の民も反発して目覚めるのではないか。

それは冗談だが、そんなことでもしない限り日本の民は自ら進んで政治に関心を持とうとしないのではないかと思うくらい、現状に危機感を抱いている。

ここはやはり、今の私たちが自由な世界を生きていられるのは、吉田松陰をはじめ、たくさんの人が命がけで政治に物申してきた歴史があるおかげなんだよ、ということを丁寧にやさしく語り伝えていくしかないよなあ。これだけとは言わないけど、今の時代にふさわしい方法の一つではある。たとえ気の遠くなるほどの時間がかかったとしても、粘り強くやっていくしかあるまい。




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