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郵便制度の発足で消滅した「飛脚」外国人も腰を抜かした“神秘の体力”
昨今のAIのように、新たな技術革新や社会システムの更新によって「消える職業」が出てくるのはいつの時代も変わりません。
明治時代の「郵便制度の確立」によって消えた職業が、「飛脚」です。
飛脚は日本ならではの職業文化といってよく、その凄まじいばかりの体力には当時の外国人も驚嘆したといいます。
江戸京都を3日で駆け抜けた健脚
飛脚は現代で言うなら郵便配達員に該当します。
江戸時代の手紙や小荷物はこの飛脚と呼ばれる人たちが運んでいました。
もちろん当時は鉄道も車もバイクもありませんので、移動手段は足のみ。
峻険な山道も勾配の厳しい坂道もぬかるんだ泥道も走って通り抜け、江戸から大阪へ、京から江戸へ遠方の配達もいといませんでした。
「横浜国道事務所」サイトによれば、江戸から京都までは約492㎞、普通の人の足なら2週間ほどかかるのを、飛脚は3~4日で走ったと言います。
ちなみに一人でそんな長距離を走るわけじゃなく、複数人が分担するリレー方式で目的地まで届けたようです。
とはいえ、一人ひとりが人並み外れた脚力と体力を持ち合わせていたに違いありません。
飛脚にもいろいろあって、宿場に常駐して公儀の大切な文書を届ける幕府公認の継飛脚、個人の手紙や荷物を預かる民間の町飛脚など、それぞれの立場で物を運ぶ任務を負っていました。
郵便制度という黒船に「仕事を奪うな」
戦前に発行された『日本ゆうびん物語』という児童向け読み物があるのですが、ここには外国から郵便制度を輸入しようとした前島密に対し、飛脚たちが「俺たちの仕事を奪うな」と食ってかかっるエピソードが収録されています。
郵便制度の導入で、輸送費は安くなり、地方の田舎や山村の僻地にも荷物が届いて便利になったのはよいことですが、飛脚たちからすれば「俺たちの仕事を取り上げた政府はけしからん」というわけですね。
身勝手なように見えますが、生活がかかった彼らからすれば死活問題。
今みたいに転職が簡単な時代じゃありませんし、職業選択の自由といった今では当たり前の価値観もありません。
過酷な労働とはいえ、仕事に対する誇りや愛着を持つ人もいたでしょう。
ただ幸い、前島密も政府も飛脚たちの生活のことは考えていたようで、政府関連の物資輸送を担う「陸運元会社」を設立し、彼らが失業しても路頭に迷わず食べていけるだけの配慮と準備はあったようです。
運輸・物流大手の「日本通運」は、この陸運元会社からスタートして今に至ります。
驚異的な体力を生んだ「意外な正体」とは
それにしても、飛脚の強靱な身体能力と底知れない体力の根源は何か、気になりますよね。
実は、小さな体をしてとんでもない馬力を持つ日本人の身体能力に驚き、その秘密を探ろうとある実験をした人物がいます。
明治時代に政府に招かれて来日したドイツ人医師・ベルツという人です。
彼は馬よりも早く走る人力車夫をみて「はあああ?」となり、一体何を食べているのかと聞きました。車夫は米、麦、粟、ジャガイモが主な食事で、肉などは一切口にしていないとのこと。肉食文化のドイツからきたベルツからすれば、信じられないほど粗食です。これは平素の食事に何か秘密があるに違いないと見て以下の実験を行いました。
二人の若い車夫を雇い、片方に米だけの食事、もう片方に肉を食べさせ、毎日80㎏の荷物を積んで40㎞の距離を走らせました。
すると肉を食べていたほうの車夫はすぐに限界がきて3日ももたなかったのに対し、米を食べていたほうは何事もなく3週間も走り続けたといいます。
ちなみに3日で体力が尽きた車夫の食事を従来の米食に戻したところ、元のように走れるようになったとのことです。
この体験はベルツにとって衝撃でした。以後、高タンパク重視のドイツ栄養学への信奉を捨て去り、「日本人には日本食がよい」と考えを改めたといいます。
そして西洋の真似ばかりする日本政府に警鐘を鳴らすことも忘れませんでした。
江戸時代まで日本人はみな同じような粗食だったので、飛脚の体力の秘密もおそらく米中心の日本食にありそうですね。
ちなみに人力車は、西洋の模倣が当たり前だった明治においては珍しく、日本人が発明した「純国産」。これも日本食で超人化できた日本人ならではの発想?
人力車は後に輸出され世界に広まり、「リキシャ」という言葉が英語辞典にも採録されています。