山口市のシンボル・瑠璃光寺五重塔
みなさんは山口県の県庁所在地である山口市のシンボルといえば何を思い浮かべますか?
県庁所在地にしてはショボ過ぎる山口駅や山口県庁、一の坂川、県政資料館、山口大神宮など色々あると思います。そんな中で、思いっきりシンボルっぽい建物といえば、やはり瑠璃光寺の五重塔ではないでしょうか。山口氏を宣伝する画像には必ずと言っていいほど登場します。
五重塔なんて全国にどこにもある、と言ってしまえばそれまでですが、山口市の五重塔は室町時代に作られたデザインのほか、自然の多い周囲の風景にとけこみ、とても優美な雰囲気を漂わせていると筆者は思います。
この五重塔がいつどのように作られたかご存じでしょうか。瑠璃光寺のあった場所には、元々香積寺という名のお寺が存在していました。このお寺はかつて山口の地を本拠地をしていた守護大名、大内氏の二十五代当主、大内義弘が作ったものです。義弘は武勇に優れ、生前は何度も戦いに参加し、多くの戦果を挙げてきました。しかし応永六年(1399)、応永の乱において室町幕府将軍、足利義満およびそれに味方する大名たちと和泉国堺(現・大阪府)で戦い戦死してしまいました。この塔は、そんな義弘の霊を慰めるため、弟で次の大内氏当主となった大内盛見(もりあきら)が、香積寺の境内に建立したものなのです。ただし、完成したのは盛見の死後の嘉吉二年(1442)となります。
その後、天文二十年(1551)に陶隆房(晴賢)が主君、大内義隆に反旗を翻した際、戦いで山口の町は火の海に包まれました。また、新しく防長両国の支配者となった毛利氏は、関ケ原の合戦(慶長五年・1600)に敗れて中国地方ほとんどを支配した太守から、周防・長門二か国の大名となった毛利氏は、萩城の築城のために香積寺の建物を解体し、その資材を利用することにしました。その際、五重塔も解体の対象となったのですが、山口に住む住民たちの多くが解体に反対する要望を出したため、この地に残ったと言われます。香積寺のあった地には仁保(山口市)の瑠璃光寺が移築され、現在に至ります。
ずっと昔から愛されてきた五重塔。単なるデザインの美しさだけでなく、それを見守ってきた人々の思いも受け継いでいるのかもしれません。
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