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「拡張家族 ここ一年間の家族の記憶 」
今やうちのファミリーである
同居人Oがうちに引越しをしてきて、先日で一年経った。
夜中にスマホで写真を整理していたら、
ちょうど一年前の初めてかこんだ食卓風景がリマインドされて、
胸が熱くなった。
現在では、同居人がもう一人増え、
同居人Oに加えて、同居人T、娘二人、私、の五人家族になっている我が家。
ここ一年の、特別で、美しい、この生活の始まりを
まとめておこうと思った。
ー
私は3年ほど前に、10年連れ添った人と離婚した。
「離婚」など、もはや三人に一人が体験するほどの
珍しくもなく、なんなら現代においては需要がある事でもあるのだろうが、
両親が離婚せずになんとか普通に暮らしてきた私にとっては、
それは、とてつもなく恐ろしい決断でもあった。
子供という大きな責任を抱えて、
自身が未体験なことを体験することが、
こんなに怖いことだと思わなかった。
何より、この自分の決断が、子供にとって不利益にならないようにと
一生心を砕いて行こうと決意した。
もし、片親ということで不遇な対応をされるようなら、
もう日本という国にしばられずに生きていったらいい。
そのくらい、どこにでもいける感覚だった。
ほとんどの家財をすて、
新しい家に三人で移り住み、
ボストンバッグ二個と、数箱の段ボールに囲まれ、真新しい布団で川の字になって寝た。
子供達の手をにぎりしめると、にぎりかえしてきた。
2018年秋から冬になろうとしていたころのこと。
翌朝。初めての朝、
朝日が障子に透けて、布団に注いだ。
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横で天使のように無垢な顔をして、未だ夢の中にいる子供の髪の毛をさわりながら、
「また、ここからやっていこう」と思った。
上の子は4歳、下の子は1歳だった。
ー
その後、半年ほど経ち、生活が落ち着いてきたころ、
余っている部屋に誰かに住んでもらって、
場や能力、知識などをシェアしながら、共生していくことができないかと考えはじめた。
結婚制度や、血縁でつながるだけではない、
毎日、繋がり、変容し、形を変えてゆく新しい家族の形。
そんな情景がふと頭に浮かんでいた。
「家族とは。」という問いを
実はこれまでも、実家の家族とともに過ごしていた幼少期から、
そして思春期になりアイデンティティを考え、その後、社会人になっても、
ずっと模索しつづけていたのかもしれない、と思った。
ここからの数年で、一つの答えがだせるのかもしれない、
そんな希望を見出していたりもした。
ーーー
ということで、家族募集計画が始まった。
まず、初めに決めたのは、
「料理ができる人」だった。
比較的、広いキッチンがあるので、
ケータリングの仕事をフリーでしている20代後半から30代前半の女子、
穏やかな性格で、子供好き、細かいことに拘らない性格、
くらいがいいのではと人物像を設定した。
シングルでの子育ては、想像以上に忙しく
子供もまだまだ手がかかる。
自身の会社も過渡期でもあったので
本当に毎日の家事が行き届かなかった。
なんとか、食事、お風呂、着替え、寝る、という生理的な世話はできても
それ以上の余暇や楽しみ、工夫ということはなかなかできなかった。
栄養価、味をパーソナライズできる(子供は薄味、私はスパイシーになど)、作り置きできる、そして一人で食べてもこぼしたり火傷したり事故らないということを考えると、
うどん(ちょっとぬるめ)、シチュー、チャーハン、お好み焼きあたりを主とした夜ご飯に落ち着いたが、もっといろんなものを食べさせたかったし、食で楽しませたかった。
ということで、「料理ができる人」は必須条件だった。
その後何度か、友人たちのツテで、
料理のできる女子が住もうとしたこともあったが、
相性、諸条件などで、ことごとくうまくいかなかった。
やはりむずかしいのだろうか。
自分のたてた目標を疑いはじめ、
子供達もそれぞれ1歳ずつ大きくなってやりやすくなり、
3人でも問題なく暮らし始めたころに、
親しい友人の紹介で、Oが家を訪ねてきた。
2020年、街が春に、様変わりしようとしている頃だった。
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同居人Oは、とりあえず3ヶ月、ということで、東京から引越し、住み着いた。
自由で面白くて、柔らかい感性と鋭い視点を持ち、料理好きで、子供好きで、30代前半だった。
事前に設定した条件の想定外は、性別だけだった。だけど、不思議ととまどいはしなかった。
彼の雰囲気から猛々しさや危険な香りはしなかったからか。
逆に家に男性が住んでいることの安心感もあった。
引越しをしてきた日は、小雨の降りそうなグレーの空に、白い桜が滲んでいた。
真っ白に見える空を子供達と見上げて
「ひとり家族が増えるよ。でも何があっても何がなくても、幸せだよねー」と話した。
子供達も「とうだねー(そうだね)」と答えてくれた。
私たち家族とOはすぐに打ち解けた。
次女はその頃、お洒落に目覚めて、
独特のファッションで桜の中を歩いた。
長女は、相変わらず甘えん坊で、私の膝から動かなかった。
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次女当時2歳はOにすっかり懐き、居ないとぐずったり泣くようになった。
時折、少し女の顔をするようにもなった。
姉は少し照れていた。そして、未来の家族像を語り始めた
「〜〜ちゃんと〜〜くんと一緒に住んでー、もっと大きな家にするの。
家族が増えると嬉しいから。」
料理が得意なOは、子供が美味しく食べる料理を考えて
作ってくれたりした。
また、文化人類学を専攻し、いろんな国へ行っては民族を研究していたので、見たこともない土地、文化の料理を作ってくれたりもした。
子供達は、私が作っても食べないものもOが作ると食べた。
一人で育てては、絶対できない体験だったように思う。
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↑ジョージアのヒンカリ
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↑アジャルリ州のハチャプリ
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↑ レッドキャベツが原因で、すごい色になってしまったが着色料なしパスタ。(味は優しいがもちろんギャン泣き)
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コロナのおかげか、思いの外、早く家族的なものになれた気がした。
Oとの距離感はとても心地よかった。
ルールはあえてあまり作らなくとも、暗黙の了解があるような気がした。
起床時間の違い、仕事、夜の会食などでタイミングあわず、居ても数日間顔を合わさない時もあったが、
冷蔵庫に入っている料理や食材が減っていたり、
タオルをつかった形跡があるとか日常の気配で、生存していることを知った。
家の中に人の気配を見つけるのが、嬉しかった。
気配は目には見えないが、実体なのだと思った。
そして、気配の集積が「家族」なのか、とも思った。
小さな答えを掴みかけたような気がした。
緊急事態解除後、Oはワーケーションといっては、沖縄から北海道まで
いろんなところにいき、産地の食材などを買ってきてくれては、
土産話を聞き晩酌をした。
Oも私も、物にあまり執着がない方の人間で、
残るものを誰かに贈ることは、ほとんどしなかった。
だけど、一つだけ、子供達がせがんだのか、
沖縄で星の砂を買ってきてくれた。
最初できっと最後の残るギフトだった。
小さな小瓶に入った、どこかで死んだ有孔虫の殻たちは、
こうして特別なものになった。
自分が死んだあとに、誰かの特別なものになろうとは、思いもよらなかっただろう、有孔虫たちよ。
その後、子供達は、
これを眺めては「Oちゃんのおみやげ、たからもの」と言った。
次女が、それを開けて湯船に入れようとしたため、
今は戸棚にしまっている。
子供達は、すっかり慣れて、「Oちゃん本当に三ヶ月で出て行っちゃうの?」と尋ねるようになった。
「わかんないー、一ヶ月後まではいるよー」
「えーもっといてほしいー」とせがむ子供に、
「いつまでいるかわかないけど、今が楽しかったら最高やん」と言った。
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ーーーー
元々、割と来客の多い家ではあったが、Oの友人も頻繁に遊びにくるようになった。
京都という土地柄か、拠点があると旅行にも来やすいというメリットもあったのかもしれない。
Oの友人がくることは、私や子供達にも楽しいイベントだった。
もう一人の同居人Tは、その友人の一人だった。
そしてその後、Tもここが気に入ったらしく、移住して3ヶ月になる。
さすがにもう一人住む想定はなかったので驚きだったのだが、
人生にはたまにそういう想定できない面白いタイミングがあるものだ。
さらに暮らしが変わり始めた。
これまでの暮らしの暗黙の了解に、筋道ができて整いはじめた。
急にQOL(生活の質)が上がった。
部屋が整い、冷蔵庫が整理され、無駄にあった小麦粉や出汁パックがなくなり、部屋に花が飾られ、たくさんの人に愛でられたその花が、長持ちするようになった。
最初は、小さなルールなどを細かな調整をそれぞれですることも多かったかもしれないが、しだいに慣れて行ったのは、
それぞれが、きっと自分のペースをもっている人だからだと思う。
その人の気配を感じて、その気配を愛せるかどうか。
それは、家族になる条件として、とても大切なことだと思う。
そして、家族でも恋人でも友人でも関係性は問わず、
人間が三人以上いると社会になることを知った。
子供達も
こういう時はO、今日はT、抱っこや肩車はOかT、ママをネゴしたいときはO、ごねたり甘えたい時はママ、というように
大人三人を使い分けるようになった。
ここ数ヶ月で、ご飯を食べるということ、
それを楽しむということ、そしてその時間はありがたいことだということを学んだ。
自分でお料理をすると、人が作ったよりも達成感があって美味しく感じることや、1割しか手伝ってないのに、「私が作ったし美味しいから私天才」というようになった。
自画自賛。だれににたのか、、
毎日、だれかが食材を買ってきて、
晩酌をして、美味しいを分かち合う。
たわいもない話すをする。
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家でしか使わない造語がふえたり、
家でしか伝わらないユーモアや習慣があったり、
そういう一日一日、一瞬一瞬の積み重ねが層になったものを家族とよぶのかもしれない。
ということで、子供達に笑顔がふえた。
私にも「やれやれ」といえる人ができた。
通常「やれやれ」だけで7割くらい悩みは解決するのだ。
また、この共同生活に、子供がいなかったら
きっと別物になっていただろうと、みんなで話した。
子はかすがい、というけれど、それは社会にとってもかすがいなのかもしれない。社会をつないでいるのは、子供の存在なのかもしれない。
そもそも、子供というものが、
『手のかかる大変な存在』になったのはいつからだろう。
拡張家族で子供を育てていくことは、
不確実なこともある。
では結婚していたら、その関係性とは確実なものなのだろうか。人はやがて死ぬし、それより前に心変わりや別れもあることもある。
今という時間にフォーカスすることでしか
本当の幸せを感じることができないのだろうと思う。
これはなかなか難しいことではあるのだけれど。
私がこれから結婚することがあったとしても、
結婚制度というパッケージに囚われることなく、
できれば契約を一年更新、毎年春闘のように条件を改善、見直しするなどして、確かめ合っていきたい、と思う。
この状況、人間がつくるものなので再現性がないことかもしれない。でも、こんな風に生活する家族が世の中にもっと増えたらとも思っている。
そして私たちも、さらに家族が増えたらいいなとも思っていて、
将来そんな物件があればなあとも思っている。
ふと、最近この形は、
私の一種のアートワークなのかもと思えるようになった。
普通なんてない。人生も家族の形も自分でカスタマイズできる。
これからも、いろんな初期設定を疑っていきたいし、
固定概念も壊し続けていきたいし、
相手の幸せを自分事みたいに嬉しいと思える家族が増えたらいいなと、思う。
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見上げると、また桜満開の季節。
Oが来て、拡張家族がはじまって、一年たった。
自分の居心地の良さ、自分が自分らしくいられる環境。
これからどんな風に変容していくのか、誰も知らないけれど、
「刹那」を大切に過ごして行きたいし、フットワーク軽く身軽でありたい。すべては自分の行動次第、欲深く行こう。
子育てや、生活や、様々なことの「あたりまえ」の輪郭が滲んでいく。
こんな過ごし方、暮らし方もあることが、誰かの背中を後押しすることができればと思い、まとめておく。
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2021年3月30日 桜の満開の京都にて。
拡張家族の物語の続きは下記をご覧ください。