『子どもため』の意味を考え直す①
私は、十数年の小学校教員生活の中で、現場でつかわれる『子どものため』という言葉の意味について違和感をもつようになった。その違和感とは何か。そこに至った2つの経験を踏まえて考えを書きたい。
1.『子どものため』が閉鎖的な意味でつかわれていること
私は、関東地方の教員として数年勤めた後、家庭の事情により関西地方に着任した。そのような働く環境の変化もあってからこそ気づいたことだが、着任早々、前例踏襲の雰囲気や職員室の同調圧力の強さに戸惑った。例えば、授業や行事の中で子どもの主体性に重点を置いた提案を会議や学年会の中で行っても、「子どもはまだそこまでの力がないからできないよ。」「あの子たちには無理だよ。」「〇〇先生はできないって言ってるよ。」「これまでそういう風にやってきてないからできないね。」等の言葉を投げかけられた。一番耳を疑った言葉は、「君は主体性って言ってるけど、子どもにやらせて自分は楽しようとしているの。」だ。『主体性』については教員同士、議論する余地もない言葉だと考えていたために、それを言われた時は唖然とし、何も言い返せなかった。
このように、現場の教員は、誰もが『子どものために』と働いているはずなのに、多面的・多角的な視点をもち、改革していく等の姿勢が後ろ向きで、閉鎖的な考えに凝り固まってしまっている人が多い。教員は『子どものために』働きたいけど、そのために自分が変化することにはなかなか消極的なのだ。
2.『子どものため』が『保護者のため』にすり替わってしまっていること
私は、異動によってある学校に着任した際、校長が「『保護者のため』が『子どものため』です。」「保護者が学校に対して不満を抱かないよう、子どもの安全、安心が最優先です。」と所信表明で謳っていた。その時はそこまでの違和感を感じておらず、保護者の要望が多い年だったために、危機管理意識を強く働かせたり事細かく電話連絡・家庭訪問したりと保護者のためにと動いた。それでも、保護者と上手くいかないこともあったので、その際は管理職から叱責を受けることが何度かあった。
私はそんな状況の中、仕事量も莫大だったことで、誰のために働いているのか分からなくなり、精神を病んだ。『子どものため』に働きたいと選んだ教員という仕事なのに、いつの間にか『保護者のため』に働いてしまっていたのだ。
このような経験から、『子どものため』という言葉の意味が『大人のため』にすり替わってしまっているという問題を提起する。『子どものため』という言葉が独り歩きしてしまい、肝心である『子どもの何のため』が現場の教員同士で合意されていないために起こる問題であると考える。『子どもの何のため』については次回、見解を書くこととする。
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