テセウスの船
2024/2/24
思考実験は面白い。
考えれば考えるほど、自分がこういうふうに考える人間なのだというのがわかってくる。
今日はその中でも、有名な思考実験の一つ『テセウスの船』について考えてみた。
内容としては、テセウスという男が所有する船があり、古くなったパーツを徐々に取り替えていった時に全パーツが新しいものとなった船は果たして元のテセウスの船と呼べるのか、というものだ。
この思考実験の面白いところは、条件を変えて行くことでどんどん深ぼりしていけるところにある。
例えば、私の場合。
パーツが新しくなっても、結局はテセウスという男が所有しているのだからテセウスの船に違いはないのではないかと思う。もっと言えば、テセウス自身がそう認識していれば、それがテセウスの船だと考える。
一方でこれに対して、元から全部変わってしまったのだから、それはもうテセウスの船と呼べないという人もいる。
その場合、次の疑問は「どの段階でテセウスの船ではなくなったのか」ということだ。半分以上変わった時なのか、全部変わった時なのか、はたまた船の根幹である竜骨が変わった時なのか。
ここからわかることは、私は『人の認識』を大事にしているということ。
一方でそうでない人は、『そのもの自体』を大事にしているということだ。また、どの段階で変わったのかということからは、そのもの自体の何を重要視しているかがわかる。
しょうもない例だが、オムライスで言えばケチャップライスが大事なのか、卵が大事なのか、あるいはその全部が大事なのかみたいな話だ。
これを突き詰めて考えた時に、私は一つ自身の答えに対して疑問を抱いた。
テセウスの船の原理を人間に置き換えてみる。
例えば、私自身が事故などで片足を失い、足を義足に付け替えた時、私は何の迷いもなくそれを自分だと言える。
しかし、頭や臓器、脳までを入れ替えた際に私はそれを自分だとは言えないだろう。船の場合、認知を優先したのに対し、人の場合は認知よりも優先されることがあるのだ。
では、どの段階で変わったのか?
順番に考えていくと、それは「心」を変えた時だと感じた。心を変えてしまえば、そもそも認知自体が自分と判断しないと考えたからだ。
では最後に、「心」も偽物というだけでまったく同じものを変えたらどうなるだろうか?
見た目姿、考え方や価値観も同じだが、最初のものとは全部違うソレを私は、自分だと認知することができると思う。
やはり、私は「人の認識」を大事にしてしまうのだ。
だが、ここまで考えた時に一つの壁にぶち当たった。
例えば、友人と外見も内面も全く一緒のアンドロイドがいたとする。その友人とアンドロイドのどちらかしか助けられない状況になった時、私は「迷わず」に友人を助けてしまうと思った。
現実的には不可能だが条件としては、本当に何もかもが一緒の二人に対して、即座に判断を下すことができた。
認識としては全く同じなのに、この違いはなんなのだろうか?
正直、ここに関してちゃんとした答えはでていない。今のところは、私自身の想像力の欠如だと考えている。言い方が難しいが、「全く同じ」という条件のものを「全く同じ」と想像できていないことに問題があるのだと思う。(友人とアンドロイドと言い方に差異がある時点で、しっかりと想像できていないのだと思う)
ただ、本当に私自身は割と形にこだわらない。明日、友人に実は自分はアンドロイドだと言われても、何の迷いもなく受け入れることができる自信はある。
まあ、もちろん驚くし、質問攻めにしたり、アンドロイドの友達がいると自慢したりはすると思うけど...。
何だったら私自身、人間ではないということを否定しきれない。自分でも気づいていないだけで、思ったよりも技術が進んでて、人間とほぼ同様のものがプログラムで作られてて、これを書いてる今すらも...。
なんていうのは厨二的な妄想だが、こう考えると極端な話「人間」なんていうのは生物学に必要な考えであって、人生においての定義としてはあまり意味がないのかもしれない。
自分が人間だと思っていれば、たとえプログラムだとしても、それは人間でいいのではないだろうか?
ウチの猫だって、私が食卓に座ってご飯を食べてると「あ、ご飯の時間か...」みたいな感じで自分の器に顔を突っ込みに行く。
それをみて、私はすごく人間的だと思うのだ。