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十日町の黒絵羽織はこうしてできた

昭和30年 40年代に生まれの方は、卒業式 入学式の時に 、お母さんが色無地の着物や 訪問着の上に黒い羽織を羽織っていたのを覚えていらっしゃると思います。羽織は少し短めの黒地で、背中に刺繍や織の模様が入っていたはずです。
この黒絵羽織には誕生までのストーリーがあります 。黒絵羽織を礼装で着るというのは、昔から決まりとしてあったのではありません 。むしろ女性は 羽織を着ないという風潮がありました 。そのため、羽織を着る芸者さんが珍しがられたりしたのです。 そんな 黒羽織がなぜ昭和30年以降、急にに流行したか そこには 産地 新潟県十日町の大きな秘密があります。


十日町を訪問してお話を伺う

筆者の似内と 昭和きもの愛好会理事長の松前は 2024年 初夏に十日町を訪問し、 織物組合の方のご案内でいくつかの会社を見学しました 。その中で最初に伺ったのが 吉澤織物さんです。 ここで会長の吉澤氏のお話を聞く機会がありました。 ここで伺った 黒絵羽織誕生はなかなか面白いものでした。吉澤氏はご自分の著書 もあり、それをくださったので 非常に参考になりました。
そちらから引用させていただきます。
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昭和30年代中頃、十日町産地がマジョリカ陶器の色彩豊かな色柄を織り出した「マジョリカお召」の大ヒットで湧いている中、我が社は、小規模で設備の問題などのためそれを手掛けることができず、このブームを横目に地道に新たな開発を模索せざるを得ませんでした。
 昭和36年、母の急逝を機に一念発起の思いで昭和町に第一工場の建設と1000目の高性能のジャカード機を導大しました。
 そこで以前からの羽織の技術(広巾のアスメン)を生かして、色絵羽織の問発に取り組んだのであります。 ピンクやブルーなどのきれいな色に染め上げようとするのですが、整経ムラが出来てキズが目立ってどうしても商品になりません。



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と、最初は他の色で羽織を生産しようとしていたことがわかりました。
試行錯誤の結果「女性をもっとも美しく見せるのは、黒ではないか?」と思い付き、黒で染めるとムラが出ませんでした。こうして昭和38年、「黒羽織」が出来上がったのです。

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 親しかった新宿伊勢丹の細川さんが「これでいい!」 「愼ちゃん、これは売れるよ!」と言ってくれた、あの弾んだ声が今も私の耳に残っています。 当初は新宿伊勢丹だけでの販売でしたが、まさに右から左へ飛ぶように売れました。 織機はフル回転、外注の出機も増やして対応したものです。
 運もあったと思います。我が社は、柄をふっくら立体的に浮かび上がらせる「ふくれ織」の技術を用いており、おかげでフイルムで覆った光沢のある糸を使って織った柄は、黒地の羽織の上に
鮮やかに浮き出たのです。
 一年ほどすると他社も次々にこの黒羽織に参入し、マジョリカお召ブームが過当競争から短期問に終わり、低迷しかけていた十日町産地に再び活気が出てきました。
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このように、十日町の織物会社はデパートとのつながりが深かったようです。直接東京のマーケットにつながるパイプを持っていたことも、成功につながったのでしょう。
今まで 自然発生的に 十日町で各業者さんが始めたことなのだと思っていましたが 、ここが発端だということで 行った甲斐があるというものです。
【参考文献】米寿に寄せて  一を以て之を貫く  一我が人生の想い一
著者 吉澤愼一 発行所 吉澤織物抹式会社
【謝辞】お話を伺いました 吉澤愼一氏に御礼も仕上げます。
似内惠子(一般社団法人昭和きもの愛好会理事)
(この原稿の著作権は昭和きもの愛好会に属します。無断転載を禁じます)

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