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【小説】遠耳(えんじ)〜自分のレールを行け〜②
母親の手を握りながら、僕は外を歩いていた。気候は暑かったようにも涼しかったように感じられたから、少なくとも冬ではなかったのだろう。母親の手はどこか暖かくて、朧げな子どもの頃の記憶の中にあっても、その体温はハッキリと覚えている。
「どこ……いく……の? 」
僕は母親の顔を見上げて尋ねる。
「あのね、これから『ことばのきょうしつ』に行くのよ」
「ことばの……」
その時の母親の顔は覚えていないが、しんどいのかなと幼心に心配させるような声をしていた。だからか、後で母親に訊くと僕は大人しく『ことばのきょうしつ』に行ったらしい。その時は『ことばのきょうしつ』への通所がどういう事なのかを当然知る由もない。言葉も何もかも足らない僕ではあったが、ただ駄々を捏ねなかったという事実を知るにつけ、振り返って当時の自分に恐ろしさすら感じてしまう。僕は幼稚園児にして、空気を読むことを覚えてしまっていたのだ。
残っている限りの記憶を話すと、『ことばのきょうしつ』には椅子も机もなく、ただマットが敷かれていた。知育玩具が置かれていて、そこには平仮名や片仮名がそこかしこに書かれていた。そして、先生と呼ばれる職員と遊んだ。私の記憶はここまでで終わっている。次の記憶は、もう母親とバスに揺られているところにまで飛んでいる。きっと『ことばのきょうしつ』の帰りなのだろう。遊び疲れた僕は、バスに乗り込んですぐに眠ってしまった。母親の手を握りながら、その温かさにいつまでも触れていたかった。
その頃の僕は発語が遅く、三歳ごろになってようやく少しずつ喋り出したくらいだった。しかも、文章という形ではなく、単語をポツリポツリと並べるだけだったと聞かされた。当時の記憶を僕自身が引っ張り出そうとしても、なかなかうまくいかない。そこで、実家から当時の記録が残っているビデオカメラを引っ張り出してきて、幼い頃の僕を見てみた。僕の幼い頃のビデオカメラなので、画素が粗く、画質も良くない。そんな中でも、僕の喋り方の特徴はハッキリと捉えられた。確かに単語をゆっくりと喋っている。例えば、「ぼく……ごはん……たべる」といったように、一語をドミノを並べていくようにゆっくりと話していた。癇癪を起こした時は、ドミノが崩れるように言葉にならない叫び声をあげていた。そして、特徴的だったのは何度か親や保育士の話すことを聞いていないかのように振る舞っていたことだ。呼びかけに対して反応していない。何度か呼んでやっと反応する。あるいは友達が反応してから自分も反応する。そんな光景を嫌というほど見る羽目になった。幼稚園時代の運動会やお遊戯会、何気ない日常の光景を映したビデオを見るたび、素早く行動できない幼い自分に歯痒い思いをした。そして、その頃の自分を想像した。きっと他の人の声がよく聞こえていなかった、いや他の音にかき消されていたのだと。だから、人の真似をして言葉を発したり、誰かの指示が聞こえなくて動きひとつにも周りをキョロキョロと見たりしたのだ。でも、僕の方からSOSを発することもなく、周りも聞き取りのことについて指摘することはなかった。
ふと僕は小学生低学年の頃に思いを馳せた。あの頃の僕はスイミングに通っていて、週二回はプールで泳いでいた。大会に出て賞を取るようなことはなかったけど、今でも自分を形作っている要素のひとつになっている。室内にあるプールでは声が反響して聞こえる。そういえば、いろんな声が混じって誰が何を喋っているのか分からなかったなと、今振り返ると思う。だから適当に話に合わせて頷いていたら、いつの間にか話題が変わっていて驚いたことがあった。周りのみんなもきっと僕と同じように話についていけてなくて、的外れなことばかり話しているのだろうと思っていたら、そうでもないようだった。それでも、泳いでいる時が一番楽だった。水の中なら音が聞こえず、まるで防音の効いた部屋にいるように感じられた。いつまででも泳いでいたかったが、そんなわけにも行かずに渋々プールから上がるといったことが多かった。
プールでは僕を守ってくれる水だったが、敵に変わることもあった。それはキッチンでのことだった。皿洗いをしていた父親に、何かを呼びかけられた。
「何か言った?」
とリビングにいた僕が質問すると、
「なんだ聞いてなかったのか」
と言われ、半ば呆れられた。水道を止めた後で、「宿題やったか?」と再度言われ、「やったよ」とぶっきらぼうに返答した。この時、水は敵になる。水道から流れる水の音が父親の声を遮ってしまっていたのだ。こんなことは一度ではなく、何度も繰り返し起こっていたことなのだ。僕は次第に、そのようなシチュエーションにならないように、洗い物が始まると自分の部屋に籠るようになった。ありふれた一軒家に住んでいて、自分の部屋を小学校に上がった頃から持っていたからできたことだ。
高学年くらいになってくると、僕に「天然」という称号が与えられるようになっていった。あまりに頻繁に聞き間違いをするので、自然とそのような認識になっていった。ある者は「芸人になったら?」と目を輝かせながら言い、ある者は「ゆるキャラみたい」だと、好奇の目で見てきた。当時の担任には呆れられながらも、「お前がいるとクラスが和むんだよな」などと言われた。六年の社会科の授業で、斑鳩寺という言葉が出てきたときに思わず、「カンガルー刑事ってなんですか?」と質問してしまい、クラス中の爆笑を誘った。芸人志望であれば、願ったり叶ったりといったところだろうが、生憎そんな気持ちは僕には微塵もなかった。ただただ困惑して、不愉快に感じるだけだった。それからは授業では極力発言を避けるようになった。分からないところは、自分で教科書を読んで理解するように努めることにした。もともと塾にも通っていたから、勉強で困ることはなかったのだ。
小学校時代の動画もデジタルビデオカメラに保存されていたので、幼稚園の頃の動画を見た後で見てみることにした。まずは小学校に入って初めての運動会。入場行進から始まったのだが、早速他の児童たちと違って、手と足が同時に出ている。そこに違和感を覚えると、バイアスがかかるのか違和感の元を常に探るようにしてみてしまう。かけっこの時は号砲の音に合わせてスタートできず出遅れてしまい、結局最下位でゴールした。ゴールの直後、僕は悔しさのあまり泣き出してしまった。その時のことはハッキリと覚えている。父や母が駆け寄ってくれて、散々慰めてくれた。周りのクラスメートも僕のところに駆け寄り、声をかけてくれた。あの頃の僕は今も周りに迷惑をかけているとは全く考えていないことだろう。
運動会の映像に飽き、次の思い出を漁っていたら小学校最後の水泳大会のDVDが出てきた。早速、プレイヤーに入れて見てみる。始まりは僕が入場しているところからだった。歩いているが、手足は左右交互に出している。流石にいつまでも手と足が同時に出ることはないと思っていたが、実際に映像で見ると少しホッとしている自分がいた。だが、スタートの号砲を聞いたあとの反応は他の子と比べて、ほんの一秒ほどだが遅れている。そうだったのかと膝を打った。水泳でいい成績が収められなかったのはスタートの反応のせいだったのだ。これもやはり、聞き取り困難症が絡んでくるのか。本当に恐ろしいほどにパズルが嵌っていく。
中学の頃の思い出はほとんど自分の中で捨てた。一時期、学校に通えなかった時期があるからだ。あんな場所のどこがいいのかがよく分からなかった。中学に入学したての頃はまだ希望を持っていた。どんな部活に入ろうかとか、勉強についていけるかとか、そういったことで不安と期待を背負っていた。今となってはちっぽけなことに思えて、苦笑してしまう。
僕が不登校がちになってしまったのには、小学校でラベリングされた「天然」に由来するところが大きい。中学になると、授業中に手をあげる生徒はほとんどいなくなり、教師に当てられることが多くなった。その度に僕は沈黙するか、「分かりません」と言うことを繰り返した。ある日、あまりに「分かりません」を言い続けたツケが回ってきた。理科の教師に、
「お前はやる気がない」
と罵倒され、挙句
「他の先生にも聞いたが、当てられても何も言わないそうじゃないか。そんなことでは及第点をあげられない」
などと名指しで言われた。教科書を事前に読み込んでいたので、テストの成績だけは良かったのだ。それにもかかわらず、発言しなければ、赤点をつけるぞと脅すような教師の発言に驚き、僕はその場で固まってしまった。僕の存在などないかのように進められる授業。気がつけばチャイムが鳴り、授業の終わりを告げていた。この時に、親や担任に泣きつけば良かったのだろうが、それがどうしてもできなかった。今思えば、小さなプライドや思春期ゆえの羞恥心が混じっていたのかもしれない。
それに輪をかけるような出来事があった。入学してなんとなく入った水泳部での出来事だった。僕が通っていたのは公立校でプールが当然のように屋外にあった。六月になるまでは、基礎体力をつけるために屋外を走ったり、プールサイドで筋力トレーニングを行ったりしていた。僕は早く泳ぎたくて仕方がなかった。小学校の水泳教室のような音のない世界を早く味わいたかった。しかし現実はそうもいかない。やむなくトレーニングを繰り返していたのだが、中学一年と三年では体格にも違いがあり過ぎた。先輩が余裕で行っているようなことができず、一部の先輩たちから目をつけられ始めていた。ランニングが特に苦手で、制限時間内にゴールできなかった。できなければもう一周、余計にノルマを課され、できなければノルマがさらに増えていく。周囲が次のトレーニングに移っていく中で、僕だけが取り残されてひたすら走らされた。ようやくランニングが終わってホッとしていると次のトレーニングが待っている。そのトレーニングも時間内にこなせず、ノルマが増えていった。そんな部活での「練習」の繰り返しに僕は絶望すら感じていた。そんな時に、僕に決定的な出来事が待ち受けていた。それはトレーニング中にトイレに行った帰りのことだった。僕は先輩からトイレの時間が長いという理由で責められてしまった。明らかに理不尽なことなのだが、ノルマが増えるのを恐れて何も反論できなかった。何より周囲は他の部活の掛け声や吹奏楽部の楽器の音などが重なり、説教の内容がほとんど耳に入ってこなかった。すると、突然三年の先輩に突き飛ばされ、勢いよく掃除前の水が張っているプールへと突き落とされてしまった。いきなりのことだったので僕は驚いてしまい、上手く泳げない。しかも体操着を着たままなので、その分の重みものしかかる。慌てたので、水もかなり飲んでいる。ようやく足がプールの底についたところで落ち着いたが、今度は意識が遠のいていく。遠のいていく中でも、「シカトかよ」という罵声がリフレインする。
気がついた時、僕はベッドの上にいた。
「おい、気がついたぞ」
男の声がする。それに続いて、
「ああ、よかった」
と女の声もした。目をゆっくりと開けてみると、父と母だった。なぜここにいるのだろう? 僕は学校にいて部活をしているはずじゃ……。
「あんた、プールに落ちて気を失ってたんだよ。覚えてないの?」
僕は少し考えてから、首を縦に振った。
「シカトかよ」
その時のことを思い出そうとすると、罵声が頭の中で響く。不安と怒り、それに羞恥心、その他諸々の感情に支配され、僕は涙を抑えることができなかった。そこに僕を柔らかく包むものがある。母による僕への抱擁。鼻を啜り、必死で涙を堪えた母にきつく抱きしめられる。僕は我慢せずに涙を思う存分流した。
その日は病院で一夜を明かした。それ以来、外へ出ようとすると、頭痛や腹痛に襲われる。そして、静かになると「シカトかよ」のフレーズが脳内を駆け巡る。僕を突き飛ばした先輩の姿は思い出せないが、その声色や音量までもがリアルに思い出された。その度に僕は体が震え、意味もなく涙を流した。その間に突き飛ばした先輩やその両親、水泳部の顧問が謝罪に訪れたが、両親はいずれも拒否した。数日経って、ついに校長が家を訪れたことがあった。もう誰が来ても会う気になれず、やはり会うことを拒否した。そんな調子だったから学校にも行けなくなり、一日のほとんどを部屋のベッドの上で過ごした。学校のことなんか考えたくもない。両親も特に何も言わず、彼らが部屋を訪ねるのも食事の時だけだった。ダイニングに行って食事をするのも面倒なので、自分の部屋に持ってきてもらっていた。
僕が部屋から出るきっかけになったのは、フリースクールの存在だった。スクールカウンセラーでさえ会うことを拒否していた僕は、もうこの部屋から一生出ることはないだろうと思っていた中一の夏休みに、フリースクール体験会が開かれるということを母親から知らされた。母親は参加に前のめりになっている。これが登校への第一歩に繋がればと考えているのがお見通しだった。そう思うと、これ以上迷惑をかけられないという思いに駆られてしまい、つい「行ってみるよ」と言ってしまった。その瞬間から、僕は深い憂鬱に襲われた。外に出ていく恐怖が付き纏い、顔のあちこちにニキビができた。ある日、イライラが募って髪を掻きむしっていると、髪のない部分を発見した。いわゆる十円ハゲというものだ。
最悪のコンディションの中、フリースクールへと向かった。道中のバスの中で、同行した母親が不安そうに顔を覗かせる。僕はその表情に対してリアクションをせず、車窓を眺めた。なんの変哲もない街、見慣れた景色。なのに、当時の僕には群青色のフィルターがかかったように見えた。何もかもが薄暗くて、先の希望も見えない色。その色は濃くなっていく。最寄りのバス停で降りると、徒歩数分のところに雑居ビルがある。そこの二階の一室のドアに「フリースクールあおぞら」というシールが貼られている。母親がインターホンを押すと、しばらくして「はい」と大学生くらいの男性が顔を出した。それから、母とフリースクールの職員と思しき男性とが会話を交わした。僕はその間も頭痛がして、お腹もシクシク言っていたのでフリースクールの中に通してもらえるや否や、無言でトイレに駆け込んだ。恥ずかしい感情も共に、トイレに流してしまいたかった。意を決してトイレから出ると、視線が柔らかなことに気がついた。この場にいる人たちは僕に見向きもせず、各々のことをしている。唯一、母と話していた職員だけが僕に声をかけた。
「大丈夫だった?」
よく職員の顔を見ると、僕より少しお兄さんに当たるような歳の頃だった。
「あんまり顔色が悪いから、体調が悪いのかなって思ったんだけど。今見たら、ちょっと顔色が戻ってきた感じだね」
なんだろう、この同じ目線に立つ感じは。何かを話さなければと思っていると、
「無理して何か話さなくていいよ。思い立った時に話してくれたらいいから」
とその職員は話しかけてくれた。
その瞬間、僕は咄嗟に、
「うっせえな」
と呟いた。母はそれを聞き逃さず、「なんてことを言うの! 申し訳ありません、この子外出るの久しぶりですから」と言った。なぜ反抗的なことを言ってしまったのか、僕にも分からなかった。そのことが余計に僕を苛立たせる。
やがて、母は遠くから見守るだけになり、僕はその職員にフリースクールを案内してもらうことになった。名札を見ると、「けいすけ」と書かれている。けいすけさんは懇切丁寧にフリースクールの案内をしてくれた。いきなり暴言を吐いた僕にも親切にしてくれたのだ。今思えば、けいすけさん始め、ここの職員はそう言ったことには慣れっこだったのかのしれない。フリースクールには昔のマンガから最新のマンガまでが並んでいたし、ボードゲームやカードゲームも豊富にあった。もちろん、勉強することも可能で教科書を持ち込んで勉強できる自習室もあるようだ。それにしても、他の利用者と目線が合わないのが不思議だった。彼ら彼女らは僕のことなど存在していないかのように、自分のことに夢中になっている。他人に対して関心をもたない感じが心地よくて、僕の心をくすぐる。ここならと思えるような居場所だった。
しばらく、「フリースクールあおぞら」にバスに乗って通った。初めは母に促されるように、週一回くらい通っていたのが、いつの間にかほぼ連日通うようになっていた。けいすけさんを始めに職員が、学校みたいにくどくどとルールを押し付けないと言うのもあったが、やはり他の利用者が僕に干渉しないと言うのが何よりもよかった。たまに話しかけてくる人もいたが、その時は適当に交わして深入りしないように気をつけていた。学校もそのことは分かっているようで、担任がたまに訪問して、母と話していると前向きに捉えているようだった。