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あらかじめ決められた恋人たちへ「6」
第1章 「巡り逢い・誕生・見知らぬ世界とハイバネーション」
14
子どもの頃の僕は自由な空間が苦手だった。
遊ぶところ、勉強をするところ、ご飯を食べるところ、ゆっくりと本を読むところ、それらが一つの空間にあると何をすれば良いのか分からずに、端っこにいて小さく体操座りをしていた。
ある日、長方形の積み木を一辺が六つずつの正方形に、僕の周りを囲うように並べると妙に心が落ち着いたのを覚えている。一つの不規則な空間の中に唯一規則性を持った空間を自ら創造した。この時に居心地の悪い空間は構造化を計り、一つ一つに意味を持たせれば良いのだと、そう感じた。
僕が次に行ったのは部屋を創ることだった。積み木を丁寧に巨大な空間を遮断するように並べていった。遊ぶところは黄色の積み木で区切り、勉強をするところは赤色、ご飯を食べるところは青色、ゆっくりと絵本や読書をするところは緑色、寝るところは黒色の順にだ。そうすると区切られていない場所が通路になり、僕はその空間を歩いた。積み木は扉の役割もした。部屋に入るとき少しだけ移動させて元に戻す。これを三年続けた。
身体が大きくなると通路は狭くなった。扉は開け辛くなり、空間は小さくなった。
ここで僕は大きな決断を迫られた。小さくなってしまった空間をどうするかだ。
現状維持か再構築するか、悩んだ。
壁に掛けられた鳩のピエロが一時間に一度僕に語りかけてくる。
『君の人生は限られている』『まだ悩んでるのかい?』『新しい進化へのパラダイム』『また同じことをすればいいのさ』『君の心は発達してるんだ』『疑え、そして疑え』『また混沌に戻すつもりかい?』『男は出産をしないし』『リンゴは空へ落ちないし』『ピエロは僕の名前だし』『真実・忠誠・正義』『さあ、決断の時だ』
積み木を崩して苦手な自由な空間に巻き戻した。
黄赤青緑黒と混ざり合い境界線は取り払われ、僕は一つの答えを導き出した。全てを一つにする空間、積み木を規則的に壁に沿って、黄赤青緑黒の順番に置く。新しい世界観の誕生、また一つより高次な世界を構造した。
これが今僕が住んでいる部屋に繋がる。積み木はコンクリートに変わり、囲いはキューブになった。そして僕が感性を文章へと変換する際に重要な環境が無機質だ。
僕は当時一冊の本を持っていた。その本がどういう内容だったのか全く思い出せないが大事に毎日擦り切れるほど文字を追った。
それは間違いなく僕の本だった。
部屋には他にも沢山の本があったが、僕の本と呼べるものはその一冊だけだった。
緑色で区切られた空間の内側で重たい本を開いていた。そうだ、あれは確かハードカバーだった。白熱灯に照らされながら、意味の分からない言葉は広辞苑で探して、さらに深みに嵌まり、眺める文字がいつしか記号に思えて、僕はしばらくの間文字が読めなくなった。
人が発する言葉を理解することはできるのに、それを文字にすると読むことができないジレンマで学校が嫌いになり、けれども、教育熱心な母親にそんな悩みを相談することもできず、父親はトマト以外に興味なく次第に自分の殻に籠り無口になった。
帰宅途中のある日の話しだ。僕は蟻の行列を抜け出して、新たな世界を探す為に岬に行くことを決意した。何故岬にしたのか——多分海が見たかったからだと、今の僕は推測する。
普段見慣れない景色は新鮮に瞳に映し出されて、何故人は馬に乗るのか理解できた気がした。岬に向かう途中に立派な白髭を蓄え、赤い服を着た老人が営む花屋があったのを覚えている。そこには僕を誘う何かがあった。その何かは分からないが、はぐれた蟻を元の歯車に戻す何かだ。その日以降、文字が再び読めるようになるまで毎日老人の元に向かった。
結局、僕はあと少しのところで岬まで辿り着くことができなかった。
少しずつ思い出してきた。僕の本は小説ではなかった。だとすれば後は教養しかない。断言したのは僕は今現在も小説をあまり読まないからだ。小説を初めて読んだのは『穴貸し』の影響で読み始めたホープ・リヴィングストンの作品のみでそれ以外にない。理由は特にあるわけでもない。ジーパンの後ろポケットにソフトクリームのコーンを入れたければ、そうすればよいだけであって、それを考えても実際に行動しないのと同じだ。そう考えれば、当時小説を僕の本として持っていたとは考えにくい。
老人は白髭を撫でながら僕の本について語った。開いて読むわけでもなく、古い木製のロッキングチェアで揺られながら、僕は首筋にできたかさぶたの痒みと戦い老人の話しを聞いた。
『チューリップは何故チューリップという名前なのか? チューリップと言えば何色を想像する? チューリップと言えば何故その形が頭に浮かぶ? おまいさんにはまだ早いかもしれんが、愛しい人ができたとき、愛の告白を言葉にしてどうして他人がその言葉を理解できる? アイラブユー、愛してる、ジュテーム。まだまだ沢山の言葉があるじゃろう。
おまいさんは今文字が読めん。じゃが発した言葉は分かっとるみたいじゃ。じゃがの、ワシが発した言葉も別に分からんでもいいんじゃ。言葉は記号じゃ、そのうち、ゆっくりと、少しずつ理解できる日が来る』
夕立が過ぎた暑い日だった。そのあと、僕は何故か文字が再び読めるようになり、無口は治ったもの、自分から進んで他人に話しかけることをやめた。アトピー性皮膚炎の症状全盛期に名前も知らない老人が語った僕の本は、あの老人が書いた本だったのだろうか?
現在の部屋にも本は沢山ある。子どもの頃に読んだ本も、もちろんそこにある。
一冊一冊読み返しても、当時僕の本が、どの一冊だったのか全く思い出せない。
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![野田祥久郎](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/7818935/profile_ba0e6eb97191165d9cae775112d435fe.jpg?width=600&crop=1:1,smart)