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あらかじめ決められた恋人たちへ「2」

   
第1章 「巡り逢い・誕生・見知らぬ世界とハイバネーション」


     2

「月が綺麗だね」
「遠回りして帰りましょう」
 あの日、僕らは恋人同士だった。だけど、それは僕がそう感じていただけで『穴貸し』は決してそんな風に思っていなかったに違いない。

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 目が覚めると彼女は隣りで静かに寝息をたてていた。ベッドから見上げた不過視ガラス越しでも、日光の屈折具合から外は曇り空だということがわかる。
 僕は寝息の妨げにならないように、そっとベッドから降りると、正面にある木製の椅子に腰掛け一本煙草に火を点けた。
 白い肌にカラス貝のような真っ黒な長い髪、右目に泣きぼくろがあった。タオルケットをかけていても豊満な胸だとわかる。
 僕は彼女の名前を思い出そうとした。自分の陰茎の具合をしみじみと確認しながら、煙草一本分を吸う時間ずっと考えた。でもそれは無駄だった。変わりに僕は煙草の銘柄から彼女のことを『命の別名』と名付けた。
『あの娘』を吸っていれば彼女の名前はゆう子あい子りょう子けい子まち子かずみひろ子まゆみになっていたかもしれないし『幸福論』を飲んでいればそれなりの名前になっていたかもしれない。偶然にも煙草の銘柄が『命の別名』であっただけで、名前なんてなんでもよかった。
 
『命の別名』は起きなかった。悪い夢だ。

 人が眠っている夢、僕はそれを単純に悪い夢と呼んだ。
 何故なら話し相手がいないからだ。話し相手のいない夢は辛く長い。僕自身が行動して夢の中のキーワードを探し出さなければならないからだ。

 悪い夢には必ず手紙があった。
 一枚目の手紙はキッチンで首を吊ったラプンツェルの黄金を編んだような美しい髪にねじ込まれてあった。

 僕はこの部屋のどこかにあるはずの初恋を探した。 

 机の引き出しの中、無造作に積み重ねられた絵本の隙間、ソファーをひっくり返した。壁紙を剥ぎ取り、風呂場のタイルを剥ぎ取り、張り付いたシャワーカーテンを一つ一つめくり、便器の裏に換気扇の奥、もしかすると『命の別名』の胸の谷間か、小川の水草のような細い陰毛の影かもしれない。なんてことない、不思議の国のアリスの膣の中に初恋はあった。

 二つ目の手紙は風呂に入っていた人魚姫の卵巣を引き裂いた魚卵のひとつに丸められてあった。
 
 初めてのセックスの話しをしようと思う。
 初体験をしたのは二十歳の春の終わりだった。
 そのあと、現在に至るまでに二人のガールフレンドと一人の友達が出来た。つまり僕はこれまでの人生で四人の女の子とセックスをしたというわけだ。多くもなく、少なくもないと思う。そしてその体験談を、初めて友達に話したのが『カントリーロード』を気持ちよく歌った軽トラの荷台の上だった。当時、他の三人はまだ童貞で得意げに人生の先輩として語った。
 
 彼女は理想的な社会構造を主張する女の子だった。
 そう正に理想的なおいしいパンを作る人間がいる社会だ『ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために』幼少期、道徳で教わる言葉を彼女は信じていた。僕は延々と畳の匂いが舞い上がる日向の彼女のアパートで説法された。何度も何度も聞いては首肯いて、首筋を左手で掻きむしった。餌を目の前にお座りをした猿のように涎を垂らしながらそのときを待った。この頃の僕はただ一日でも早く童貞を捨てたかっただけで、彼女の話しなんて下半身には何も響いて来なかった。
 
 初めてというのは人生において一度きりだ。当たり前のことだ——初めてなのだから。その初めてが何であれ、それは人生の糧になり、アイデンティティの構築にも繋がる。
 初めて読んだ本、初めて好きになった女の子、初めての手淫。初めてなんて数えきれないほどたくさんある。もちろん初めてを経験しないほうがいいものだってある。
 例えば、初めての覚せい剤、初めての殺人、初めての戦争——。 
 初めてが最悪であれば、それを二度と経験したくないのは人間の本質でもある。こんな風に言うならば、初めてのセックスは成功だったに違いない。僕はその日以降、快感快楽に身を任せ猿のように腰を振り、ゴキブリのような生命力で産まれてくることない、たくさんの子どもたちを殺した。

 三枚目の手紙は動かない振りをしていたピノッキオの鼻をへし折るとあった。

『好きな色の中でおやすみ』
 僕はこの部屋にある好きな色を探した。
「うん、おやすみなさい」
 僕は『命の別名』に別れを告げた。 
 

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