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あらかじめ決められた恋人たちへ『序』<前>

序章の序章『あらかじめ決められた恋人たちへ』

序章〈前 後〉 
第一章 〈巡り逢い・誕生・見知らぬ世界とハイバネーション〉
第二章 〈記憶・歯車・意識的特異点とプラグアンドプレイ〉
第三章 〈別れ・再生・目覚めの日とシリアルストリーム〉
最後


「現実に自由なんてないのよ。理想の恋人が現れないのと同じように——」
いつだったか『穴貸し』に言われた言葉が、今でも深く印象に残っている。
 
 複雑に飛び交う意識の断片、人生をチャプターで区切るのであれば、今となってはどのシーンだったのかも分からないくらい薄い記憶の事柄だが、偶然触れて、偶然言葉を交わして『穴貸し』は僕の前から去って行った。
 それでも僕はこの言葉の意味を考え続けた。
 自由と恋人について考えることは豊かな心の現れであるかのように、あるいは乏しい心の抜け殻に無理矢理押し込めるかのように、その言葉の意味を考え続けた。 
 そしてまた——それと同じくらい——僕は美しい文章の追究をした。
 美しい文章を書くことが言葉の意味を理解する方法だと信じていたからだ。
 頭の中で思い描く文章が美しいほど、文字に起こすと酷く醜い下水道を勇敢に突き進む得体の知れないものが書いたような文章でしかなかった。
 それでも僕は書き続けた。
 相変わらず酷く醜い下水道の中を突き進んだ。
 本当に美しい文章とはどんなものなのか?
 僕は何も知らない無垢な赤ん坊が書く文章こそが、真に美しいものだと思っている。
 何者にも毒されず、思想を持たない赤ん坊だ。
 ただ、残念なことに赤ん坊は文章を書けない。
 そして僕は赤ん坊にはなれない。
 そんなもんだ。

 僕は何者にも制約されず、この五年間ひたすらに文章を書き続けた。
 それはまるで針の付いていない釣り竿で熱心に魚釣りをする老賢人のように、僕は文章の流れに糸を沈めて美しい文章が流れてくる日を待った。
 しかし、どれだけ待とうが美しい文章は流れて来なかった。糸は虚しく文章のせせらぎにゆらゆらと流れているだけで、流れ来る文章は田舎の水草の生えた小川のように限られた領域でしかなかった。
 それでも僕は釣り竿を振り続けた。
 振って糸を沈めては巻き上げ——そしてまた振った。
 今、五年という歳月が経ち思うことは、それは美しい文章ではなく、もしかすると文字や記号、暗号か、それとも想像もしえないものかもしれない、という可能性だけだ。

『穴貸し』の言葉でもう一つ印象に残っている言葉がある。
「人生で大切なのは両手に与えられた古い地図と新しい地図を重ね合わせること。
 大事なのは距離感と変化なの」
 僕は右手に新しい地図と左手に古い地図を常に持ち合わせて、幾度となく重ね合わせた。夏の熱い夜、冬の寒い朝、発熱した午後二時に、豪雨だった午前九時、たった数時間、違うだけで重ね合わせた地図の距離感は狂い、地図は変化をみせた。
 それは奇しくも文章にも同じことが言えた。
 両手を僕が書く文章の地図と古典の地図に変化させ重ね合わせた。その度に幼稚で雑で、一貫性のない僕の文章との距離感を計った。
 言わずもがな、五年も経てば僕の文章は変化をみせたが、同じように、左手の地図も今まで見たこともないほど美しい文章へ変化した。
 いったいこの先どれだけの文章を書けば、僕が探し求めた可能性が流れてくるのかなんて途方もないことだろう。
 しかし、それでも僕は文章を書き続けるに違いない。
 兎にも角にも、文章を書くという行為は人格の延長のようなものだと思っている。

 ある日のことだ。
 偶然、釣り竿を振る前に小川を覗いたことがあった。
 何故、偶然覗いたのかというと、簡単なことだ。
 文章を書くことに疲れ、背伸びをして両手で目を覆ったときに、眉間にデキモノがある手触りがあったからだ。
 小川を覗く理由としてはこの上ない。 
 そこには小川に映る僕がいた。 
 彼は僕が覗いてることにまったく気付くことなく、まるで僕が探し求めているものを知っているように、右手に持った与えられた数だけの色鉛筆で、必死にたくさんの文字を一冊の真っ白な本に書いていた。
 与えられたもの、失ったもの、捨てたもの、たくさんの文字たちがそこにはあった。
 五年間、釣り竿を懸命に振り続けて探し求めていた可能性は、僕の足下に見つけられそうな気さえした。 
 僕は小川に映る彼の真似をして一冊の真っ白な本に同じように与えられた数の色鉛筆で文字を書いた。

 真っ白な本にはタイトルがあった。
 僕は同じようにタイトルを記入して同じ色で同じ文字を書いた。
『あらかじめ決められた恋人たちへ』
 それがこの本のタイトルだった。

 日付と時間、意味不明の文字の羅列、言葉の意味、その何もかもが出鱈目だった。
 僕は書き写した文字を時系列に直し、文字の羅列を再構築して文章に起こした。

 最初のページはいくつかの文章がこんな風に書かれていた。
『万物の根元とは何か? 無限なるもの? 空気? 火? アトム? 数?
 アメリカ合衆国? いやいや、女の子のスカートの中だよ』

『君がどう思っているのか知ったことではないけど、
 名前というのはこの世界で一番美しい文字の羅列だよ。
 ボクはいつだって、僕の名前を追いかける』

『三十分、二万五千円になります』

 それからというもの、僕は何かに取り憑かれたように彼の文字と戦った。
 そして一つの特異点とも言える文章に出会った。

『物語は僕の心だ。
 その心は統制、表現する力を持っている。無防備な心は様々な経験を受け入れることができる。しかし、それはとても繊細で心は傷つきやすい。
 僕は心の転換期を迎えているのだろう。今の僕の心は現実や夢、未知の境界すら全てを一つに受け入れ、それが自身の規範になろうとしている。
 古い心は困惑を始める。ただ、本質的な何か——奥深くまで心に潜ることが今の僕には可能なのかもしれない。
 そしてそこで新しい心を手にする。
 それは大きな、大きな、偉大な心であってほしいと願う。
 本来の個の姿に立ち返り、そして客観性が解き放たれるだろう。
 それは無でありながら、同時に夢でもある。そしてそれは豊さでもある。
 大きな、偉大な新しい心は今の僕には理解できない。
 だから僕はその心を探さなければならない。
 ここは夢際(ゆめぎわ)、自由を憂う』

 この文章を再構築したとき、僕はようやく自分がいる場所を思い出した気がした。
 いつからここにいるのかさえも思い出せない。いつも誰かに話しかけられて、その言葉に触れる。触れていたい時間のようで、触れると痛い幻のような世界。

 今だからこそ、思えばその兆しは少なからずあった。
 そして僕は直感的に、この世界を旅する準備をしていた。

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