パラレルライン「4」
一ヶ月程経ったある日、夕食の食材を買い揃えて家に帰り着いたとき、岩瀬から電話があった。
「なにしてるの?」
「食事を作ろうかなと思ってるところだよ」ぼくは答えた。
彼女はそれを聞くと気を遣った口調で、一緒に飲まないかともちかけ、ぼくは少しだけ考えて承諾した。散歩をしているときに良さそうなバーを見つけて、一人で行くのもなんだか気乗りしないので、ぼくを誘ったそうだ。食材を冷蔵庫に入れ、指定された場所へ向う。ここから電車でもそう遠くない場所だったが、あまり待たせるのも悪いので、タクシーを大通りで拾った。
「ごめんね。夕食作ろうとしてたんでしょ?」
「いいよ。外に出たかったというのも正直あるんだ」
「そう、良かった」
前回ぼくが連れて行ったバーより静かで、照明も落としていた。店内の闇は外よりもはるかに濃く、瞬きを繰り返してようやく透かし見えるほどだ。バーテンとアルバイトらしき大学生はにこにこしてはいるけれども、ぼくらに話しかけてくる様子はなかった。奥のソファ席に案内され、マリア様が蝋燭を持った像にアルバイトの彼はマッチで灯してくれた。ウイスキーをボトルと、少しだけのつまみを頼んだ。
「落ち着くところだね。いいところだ。よくこんなところを見つけたね」
ぼくはいつもより一声落として言った。
「偶然よ」
彼女はアイスペールの氷をグラスに分けながら言った。
「散歩をしながら、ふとここが目に入ったの。入り口から少しだけのぞいたんだけど、中が暗くてよく見えなかったから、高木くんを呼んだのよ」
「そうなんだ、きみなら一人でも入って行きそうだけどね。でも散歩なんてするんだ」
彼女は出来上がったグラスを「はい」と言って渡してくれた。
「習慣なの。お陽様が西に傾き始めると、空を見たくなるの。あとは近くの公園にいる野良猫と遊んだりするのよ」
「散歩なんて随分してないし、野良猫は危なくないのかい?」
「気分転換になって良いわよ。猫だって瞳がくりくりして可愛いわよ。高木くんは嫌いなの?」
「嫌いってわけじゃないけど、これまで猫はもちろんだけど、動物に接したことなんてあまりないから……。かわいいとは思うけどね」
「かわいいわよ。猫じゃらしは生えてないから、適当に草をちぎって遊んであげるのよ。頭の上でゆらゆらしてるのはなんだろう? って顔して好奇心いっぱいに飛び跳ねるの」
彼女は嬉しそうに話す。
「散歩してるときは何か考えごととかしてるの?」
「考えごともそうだけど、正確には電線を見るためなのかな」
ぼくは言葉を聞き間違えたのかと思い聞き返した。
「電線を見るため?」
「そうよ」
「電線ってあの電線? 電柱から出てる電線?」
彼女は笑いながらまた「そうよ」と言った。
何度か彼女と飲みに行って、少しだけ変わっているのは薄々気付いていたが、電線を見ることが習慣とは、変人と思う以上に彼女が少しだけ心配になった。
「電線ってなんだと思う?」
彼女は聞く。
「電波を運ぶ役目とかじゃないの? テレビや電話、インターネットとかさ」
「その通りね」彼女は今日一番の笑顔で言った。
「無機質で硬質感があって、配線が戯れてる、ただの冷たい作り物。でもその中にあるのはこころだと思うの」
「こころ?」
彼女はひと呼吸置いて話し出す。
「想いなのかな。昔さ、糸電話で遊んだことあるでしょ?」
「ああ。糸と紙コップを繋いで、糸の振動で声が聞こえるやつだよね」
「糸電話ってさ、ドキドキしなかった? 小さな声で話しているのに遠くの相手に聞こえて、その細い糸の繋がった先の誰かに、わたしの想いがちゃんと届いたのかなって」
「楽しかった思い出があるよ。ぼくが聞き役で、相手は見えないところで話す。それが誰かなのか当てるゲームとかしてたからね」
辺りを見渡すと、暗かった店内もぼくの瞳がその明るさを吸収して、全体像を確認できるようになっていた。隣のソファ席の髪の長い客は実は男だったり、壁に飾られた太陽の大きな写真は夕陽であったりした。
「いろんなモノが便利になった世の中でしょ。一家に一台だった固定電話だって、今じゃ一人に一つの携帯電話になった。指先一つで風になって愛してると飛んで行く。たとえ星と星の間でも。でもね、電線を見ていると、その始まりと終わりが、あの線一本で作られている。遠く離れた場所でも複雑な迷路に迷いながらも繋がってるの」
「つまりは、空を飛んで目的地一直線より、電線を通して目的地に到着する方が魅力的ってことでいいのかな?」
彼女はぼくの空になったグラスを指差した。ぼくはうなずき、何杯目かのウイスキーが注がれる。
「そういうことにしときましょう」
彼女はウイスキーを含み言った。ずいぶん飲んだようだが、頭の中は冴えていた。彼女の話しは新鮮だった。他の友達と飲みに行けば女やテレビの話し、週刊誌を騒がせている問題など、たわい無い話しをして酔いつぶれる。
マリア様の手にした炎はゆらゆらと彼女の瞳に映り込み、その炎を見つめていると、空間は瞬く間にぼくらを包み込んだ。彼女の手にしたグラスに入った氷は、炎に反射してぼくのところまで届く。炎を媒体にして創られた空間は、テーブルを超えて彼女と繋がっている気がした。
この晩、こんな話しをずっとしていた。静かな店内でウイスキーを飲みながら電線の話しをする。ぼくらだけ特殊な話題かと思ったが、時おり小さく聞こえる話し声は、美味しい甘エビの見分け方やニーチェの格言、株価のことなどを話し巡っていた。バーテンとアルバイトは相変わらず無口で、満足そうな表情をしていた。
帰りがけ、ぼくは電線を眺めながら帰った。わずかばかり照らされた星は、街の放つ莫大な熱量に追いやられながらも輝いていた。そんな光と光の間に目を凝らすと、電線の存在に気が付く。
こんな夜中に真っ黒な電線を眺めるぼくは変人なのだろうと思いながら、見上げたそれはなんの変哲もない無機質な集合体でしかなかった。ただこの瞬間にも、この線を通した先に悲しんでいる人や微笑んでいる人がいるのだと思うと、こころと言った岩瀬の感性に共感できた。
岩瀬は不思議な人だ。特別美人というわけでもなく、クラスの女子ならばその他大勢に位置するくらい、ただ、何か惹きつける魅力があるのは確かだ。散歩が習慣だからなのか、服装は普段からボーイッシュな着こなしだが、女性らしい服装も似合うことは披露宴のドレス姿から分かっていた。
初めて会ったときの印象はガサツな人だろうと思った。ドレスの解れた裾を指に絡めて引きちぎっていたからだ。一緒に飲むようになって繊細な感性を持つ女性だということがわかった。ぼくと同じようにアルバイトを転々として、なにをするにも気まぐれで、旅行に行くと言って数日間どこかに行ったときもあった。お土産は決まって現地のマイナーなもの、特にキーホルダーが多かった。特別貰って嬉しいものでなく、できれば無難に誰でも知っているようなものがよかった。
「誰も知らないようなものだからこそ、その場所への思いが深くなるの。だってそれを見つけるために、その土地をたくさん探検しなきゃいけないでしょ? 有名なお土産なんてどこにでも売ってるのよ」と言っていたが、貰う側としてはそんな思い入れなんてないわけで、それにキーホルダーを付ける年齢でもなく、ただセンスが悪いだけだろうと思っていた。一見ぼくと似ているところは多々あるのだが、岩瀬の言うこと全て、何か全体の真理に触れているような気がしていた。それが惹かれる理由だろう。
なにも目指すものがないぼくにとって、岩瀬は何かを探しているような気がしてならなかった。それはぼくが、やりたいことを探すこととは、全く次元の違うことだと感じている。岩瀬はぼくが生涯かかっても到達できないような答えを、もう既に導き出しているのではないのかと思った。
初めて飲みに行った日から、何度か一緒に飲みに行った。親しく接しているが、それは世界中を旅するバッグパッカーが少しだけ滞在した街で、現地の住人と接しているような感覚でもあった。この街で何かを得て、また一歩何かに近づくための休息地点、その日は突然訪れて、なにも言わないまま旅立って行くのではないのか? そんなことをぼくは一つ一つの言葉から感じていた。