パラレルライン「3」
クローゼットから取り出したくたびれた黒のスーツに袖を通す。アイロンを掛けて皺を取れば良いものの、結局一日終わればまた皺になるのだから、要らぬ労力を使いたくなかった。それに、これから赤の他人の披露宴に参列するわけで、ぼくに気を留める人なんていないと思ったからだ。上着のポケットから小さく三つ折りにされた前回の席次表を取り出して広げて見る。出席者は百名ほどだが面識のある人間はいなかった。唯一同じテーブルに組み込まれた、岩瀬智子という女性だけは派遣元が同じだった。
いつでも仕事の依頼があるわけでもないので、固定のアルバイトの合間、たまの気分転換にはちょうど良かった。普段食べることのないフレンチやデザート、引き出物まで貰える。首をキツく締め付ける着慣れないスーツだけが息苦しかったが、出席者と話すこともなく、終始笑顔で傍観者を決め込めば出来事は直に幕を閉じた。
出発の準備ができて事前に送られてきたメールを確認する。新郎新婦の基本的な情報、ぼくとの関係、集合先に文脈の最後は、決して粗相のないようお願い申し上げますと締められている。こんな文言を書かなくとも場はわきまえている。人に誇れるような人生ではないが、一般的常識は持っているつもりだ。ただ、どんな所にも常識が通用しない人がいるわけだ。
小さな川の両端に植えられた桜の木は毎年提灯を飾り付けられて、水面に反射した光が、道しるべのように春の訪れを運んでくる。お祭り騒ぎの様子はもうなく、桜の花が大地を絨毯のように敷き詰めている道を歩き目的地へ向かう。集合時間の十分前に到着すると、見覚えのある顔が二つ、体格の良い如何にも体育会系の派遣元社員の男性と、前回一緒だった岩瀬智子がいた。
「おはようございます。お待たせしました」
集合時間より早く到着したけれど、なぜか待たせた気になるのは、ぼくだけだろうか?
「おはよう」
と彼は元気に挨拶をして、彼女はぼくを見て会釈だけした。
「今日の現場は二人だけなので――。二人はこの間も一緒だったから自己紹介は大丈夫だよね?」
ぼくたちはうなずく。
「なんか元気がないな。そんなんじゃ駄目だよ。笑顔を忘れずに、おはようございます。どうぞ」
前回もこんなやりとりで始まって、正直なところ少しだけ引いてしまったが、二回目になると当たり前に思えてくる自分を気持ち悪いと思った。
「おはようございます」
彼は不満そうな顔をしていたが、そのまま仕事の説明に入った。説明と言っても、メールで送られた文章の確認が主で、目新しいことはなにもない。
「――ということで、今日もよろしくお願いします。最後に決して粗相のないようによろしく」
決まり文句を言ってぼくたちに御祝儀袋を手渡した。その場で別れて式場へ向かう。とりわけ話す話題もなく、ぼくが地図で確認しながら先頭を歩き、数歩離れて彼女が付いてきた。
移動の最中ぼくは御祝儀について考えていた。このお金はどこから出ているのか? クライアントだと思うが、派遣元に依頼して自らの御祝儀を自ら出して、需要と供給が一致しているわけだから、アルバイトとしてお金を稼ぐことができているが、身分を偽った他人に祝福されるなら、いっそのこと無関係な人間の席でも作った方が、ぼくとしても気楽に祝福できるし、新郎新婦も割り切って赤の他人に祝ってもらった方が、気を使わなくてもいいのではないか? どうでもいいことを考えていた。
「高木くん……」
後ろで彼女に声を掛けられたが、ぼくを呼んでいると言うことに気が付くまでに数秒かかり、振り返ると同時にもう一度「高木くん」と言われた。
「ごめん、どうしたんだい?」
「肩に糸くずが付いていたから」
そう言って彼女が糸くずを取って「ほらっ」と見せた。
「あっ、ありがとう」
「いえいえ」
彼女は手を顔の前で振りながら言った。
式場に到着するまで結局会話したのはそれだけだったが、彼女がぼくのことを少なからず見ていたことに、面倒くさがらずスーツにアイロンを掛ければよかったと後悔した。
新郎側の出席者として、高木秋人と書かれた御祝儀袋を渡して受付をする。周りにいる出席者は皆懐かしそうに、学生時代の思い出にふけているが、昔の仲間が集まるとき、なぜいつも同じ話しをして、同じタイミングで笑うのだろうか? 過去を振り返り、ともに過ごした時間を再共有することで、空白の時間に細胞分裂を繰り返して変化してしまった個を、意識という集団に帰属させようとしているのか、はたまた、薄っぺらの付き合いで、他人の世界に入り込む道が狭いだけなのか、いまのぼくには分からないし、そのどちらでもない。過去を共有できる人間がこの場で岩瀬一人だとしても、どちらにも属さない。それがただ単に前回初めて会ったということだけでなく、いまのぼくが、ぼくであってぼくでないということが大きな要因だろう。
ぼくは数ヶ月前に誕生した人間だからだ。代理出席アルバイトに登録して高木秋人という架空の存在になった。それは岩瀬も同じだろうと思う。ぼくはこの世界にいない人物を演じている。登録の際、本名と偽名を入力する項目がある。出席はどちらの名前を使っても構わないが、ぼくは迷うことなく偽名を選択した。いまこの場にいる高木秋人とはプログラムのようなものであり、それを忠実に再現しているだけだからだ。
お気に入りの小説の主人公の名前を借りて、創造されたひとときの自由を手にした気分、だから何も考えない、それが一番楽だから。
ウェルカムドリンクにラムコークを貰って一息、受付まで一緒だった岩瀬は足早にテーブルへ向かって行った。ぼくは席次表を確認すると設定通り、大学時代のアルバイトの後輩と記されていた。もちろん彼女も同じだ。大手コーヒーチェーンで年齢は新郎の一つ下、トレイの三点持ちを教えてもらったというエピソード、もちろん実際のぼくはコーヒーショップで働いたこともないし、三点持ちもできない。ねつ造した記憶を再度インプットさせテーブルに向かうと、高木秋人様と書かれたネームプレートを見つけて座る。メッセージが一言、今日はありがとうございますと書かれているのを確認すると、そのまま投げるように引き出物の入った袋の中に入れた。その様子を見ていた彼女は「ふふっ」と微笑んで、まだ炎の付いていない蝋燭を真っ直ぐな目で見つめると、誰一人知らない中でぼくたちだけ、同じ空間を共有しているような気がした。
全身を黒のタキシードと真っ赤な蝶ネクタイ、純白のドレスにシルバーのティアラを冠した二人を出席者はおしみない拍手で迎い入れる。この日のためにどれだけの時間を費やしてきたのかは想像もつかないが、この場に居合わせた者として素直に祝福をした。簡単な挨拶を終わらせ、乾杯の音頭は新郎の上司が務めた。暫しの歓談に入り、オマール海老に牛フィレ、黙々と目の前の料理を消化した。
「それでは、これより新郎新婦のプロフィール映像をご覧いただきたいと思います。皆様、中央のスクリーンをご覧下さい」
司会の女性が言うと、ざわついていた式場が少しずつ静かになる。
限りなく広大な宇宙を漂い探し求めた遺伝子が、また新たな宇宙を創り出し、その空間の中で星座を創り出す。何度、披露宴を経験しようとも、この瞬間だけは、たとえ赤の他人だろうが、知り合いだろうが、神懸かりにも似た因果を感じられずにはいられなかった。
映像が終わり、新婦がお色直しの為に退席する際、何気なく岩瀬を見ると、虚ろな瞳で蝋燭の炎をじっと見つめていた。その姿にぼくは何故かたまらない切なさを感じてしまった。
蝋燭の炎を見つめる彼女はどこか寂しい表情で、先ほど感じたぼくたちだけの空間はそこにはなく、炎を媒体にした膨大な熱量だけが彼女だけの空間を創っている気がしてならなかった。
数秒の間、彼女を見つめた時間は永遠にも感じるほどに遠く、道しるべもない宇宙を漂うほどに、さらに遠ざかった。
視線を感じたのか、ちらりと見て微笑むと、無意識の内に彼女の手を引いて会場を飛び出していた。
「――高木くん」
何度か呼ばれてハッと我に返ると、自分の行為を理解して恥ずかしくなった。
「どうしたの?」
「……いや。ごめん、自分でもよく分からないんだ」
「決して粗相のないように」
「……ごめん」
初めは険しい顔をしていた岩橋だったが、ぼくが反省していることを感じ取ったのか一度大きなため息をつく。
「わたしもなんだか飛び出したい気分だったし……。これで怒られたら高木くんの責任ってことで」
微笑み言う。
「本当にごめん」
「もういいのよ。気にしないで、引き出物は置いて来ちゃったけどね」
「ごめん」
何度も謝る。
「わかった。じゃあなんだか飲み足りないから一杯付き合ってよ? もちろん高木くんの奢りで」
「もちろん。喜んで」
そう言ってぼくは岩瀬を行きつけのバーへ案内した。特におしゃれでもなく、特別なお酒が置いているでもない在り来りのバーだったが「いい雰囲気ね」と喜んでくれた。
ぼくはウィスキーロックを、彼女も「同じのでいいわ」と二つ頼んだ。
「今日はごめん、ありがとう。えっと……。岩瀬さん」
彼女の名前を呼ぶことに少しだけ抵抗があった。
「もう謝らないでよ、どう致しまして」
と少しだけ頬を上げて言った。無愛想な顔立ちの彼女だが、時おり見せる笑顔に明るい人なんだろうと感じた。
ぼくたちはお気に入りの映画のことや、旅行したことのある地域のこと、グラスの中の地球に、星の創り方の話しは面白かった。それ以外は深く何かを話すわけでもなく、会話の中に出てくる単語を切り取り、そこから流れ作業のように淡泊な会話が続く。それでもグラスの中身は着実に減っては注がれた。
派遣元からいつ連絡があるかもしれないとビクビクしていたけれど、結局連絡は無くいつの間にか忘れていた。
彼女も定職には付かずに、自由奔放に点々としているということを聞いた。
早めに人生を決めた方がこの世界は優遇されることは分かっている。アルバイトで生計を立てるぼくは、当分の間は世界に見放された生活を送るわけだ。それでもぼくは満足している。父親の残した高層マンションに一人で暮らし、好きな日に休みを取る。そんな生活がぼくは好きだ。
この日以降も、ぼくの生活に変化はなかった。代理アルバイトの連絡も何度かあったが職場放棄した体もあり断った。何も言われなかったのでクレームは無かったようだ。固定のアルバイトを時間きっちりに終わらせて、今まで通り気ままな生活を送る。たまの電話は飲みの誘いで、休みの日は中古のハーレーでどこか遠くを目指した。