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あらかじめ決められた恋人たちへ「4」
第1章 「巡り逢い・誕生・見知らぬ世界とハイバネーション」
10
今週は悲惨な始まりだった。日曜日に大雨が降り、僕は休日の日課である本屋へ通うことができずに家で古びた本を読みながら、もやもやとした気持ちを抑え、次の日は珍しくドヴゥルザーグが新世界よりを大量に降らせて、その次の日は道端が音符でいっぱいに広がり後片付けに追われ、ストレスで朝からアトピーが痒くてしょうがなかった。水曜日は人身事故でオウィディウスが止まり、良き市民たちは「ナソ! ナソ!」とデモを起こしラブホテルを占拠した。木曜日はコンドームを装備した自衛隊が良き市民を鎮圧して、金曜日は録画したはずの『博士の異常な愛情または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』が「R作戦」中止の暗号を解読したところで何者かの陰謀により容量オーバーとなった。土曜日は久しぶりに平和を取り戻し、また始まりの天気の良い日曜日がやってきた。
パンプキンスープの粉末が入ったカップに蒸発を始めた水を理に逆らい注ぎ、フランスパンを千切りスープに浸して食べる。新聞を眺めると保育士になろうという記事に僕は目が止まった。
『保育士になろう! 動物園実習で触れ合い方を学ぶ!
快楽は、他人の苦痛を代償としたときに最も甘美である大学』
幼稚園教諭や保育士を目指す学生に動物への理解を深めてもらおうと、快楽は、他人の苦痛を代償としたときに最も甘美である大学(以下、快楽)子ども科2年生の42人が犬や羊などと楽しいひとときを過ごし——またコーギトドゥグラングールなどの稀少動物とも触れ合った——ヘビなどのハ虫類とも触れ合った火星からの特別留学生 If you want to make God laugh,tell him about your plans.(神様を笑わせたいなら、自分の人生設計を話してごらん)さんは「見た目や動きだけでこれまで気持ち悪いと嫌っていましたが、触れ合うことによって怖くないことがわかりました」と——よくわからないけど嫌いはいじめと同じ。動物と触れ合うことで、動物の気持ちを考えることができたのではないでしょうか。
コーギトドゥグラングール、昔々に聞いたような名前を思い出した。赤ちゃんは今どうしてるだろう。それに稀少動物だったってことにも驚いた。僕はパソコンを立ち上げ間違えないようにコーギトドゥグラングールを検索した。
ドゥビトザル科の希少種で主にベトナム、ラオス、カンボジアに生息、熱帯雨林モンスーン林に十頭程の群れで生活——木の葉や果物を主食としている。以前はエルゴードゥグラングールやスムドゥグラングールともに亜種とされていたが——現在では独立した種となる。ベトナム戦争時、米軍によって散布された枯葉剤によって——絶滅危惧種となる。
ざっとこんな感じだ。画像を見ると想像した猿とはまったく違い、毛並みがとてもきれいで顔のまわりが黄色く、白い髭のようなものが生えて、全体は濃い灰色なのだろうか、腕は白い。時刻を確認する。午前8時、僕はスープとフランスパンを流し込み、一週間溜まった洗濯物を干して、歯磨きをして出かけた。
動物園までは電車で一時間ほどだった。ビル群の隙間を抜け、橋を渡ると田畑が広がる。普段の満員電車から解放された車両は、僕と同じで休日スタイルでもある。のんびりと時間だけが過ぎていく。そんな空間は心地がいい。たまにただ時間だけがゆっくりと過ぎ生きてる感じがする。今日みたいに青い空に雲がゆっくりと流れているのを眺めると、僕の前世は雲だったのかなと思うことがある。
窓の外ではヘリコプターが一機、優雅に雲を翔ていた。
入場料を払い園内に入ると、直ぐにコーギトドゥグラングールの柵を探した。ゾウ、ライオン、キリン、たくさんの動物たち、目当てはコーギトドゥグラングール、それ以外なにもない。
僕は汗ばむ首筋をロケットペンダントの鎖の上からハンカチで軽く拭きながら目的の場所へと急いだ。園内はまだ開演したばかりで入場客も少ない。それに今更、コーギトドゥグラングールを目的にやってくる客なんていないはずだ。
柵の前にはもちろん誰もいなかった。それどころかコーギトドゥグラングールさえ見当たらない。僕は岩場や木陰に隠れているのではないかと、体を左右に揺らしながら覗いたがいっこうに姿を表さない。
「ねえ、君?」
二十ニ、三くらいの黒髪でセンター分けの女の子。
「僕ですか?」
「そう、君だよ」
彼女は僕の隣りまで来てにこりとする。
「君もコーギトドゥグラングールを?」
「ええそうですけど、いないんですよね。今朝の新聞で大学生が触れ合ったって書いてたから来たんですけど、まだ寝てるのかな?」
「そう——それは残念ね。今日はいないのかもしれないわね」
彼女はなぜか嬉しそうに残念な表情をみせた。
「そんなことってあるんですかね?」
「それか本当はもともといなかったとか?」
「もともと?」
僕は聞き返した。
「もともとよ。コーギトドゥグラングールなんてもともと存在しないとか」
「そんなことはないですよ」
僕は苦笑いをして言った。
「ちゃんと新聞にも載ってましたし、ネットで画像も見たんですよ。ベトナム辺りに生息してることも知ってます」
「でも、見たことは?」
「ありますよ。今朝ネットで——」
「実際によ」
「え?」
「実際に見たことはあるの?」
「それはないですけど」
「じゃあそれはもしかしたらいないのかもしれないじゃない」
「理解できないですね」
「可能性のひとつよ」
僕はなんだか面倒くさい人にからまれたと思いここへ来たことを後悔した。
「じゃあ、あなたも見たことはないんですか?」
「あるわよ」
彼女は自慢げに答えた。
「話しが見えてこないですね」
「そのときはね、でも今はいない。人の記憶なんてあてにならないわ。いろんな情報から移りゆくものよ。私は見た気になってるのかもしれないし、もしかすると君は昔コーギトドゥグラングールを見に来ているかもしれない」
「記憶にないですね」
「そうね、そんなものよ。もしかすると君と昔どこかで会ったことがあるかもしれないし——」
「僕はないと思いますね」
ふてぶてしく答えた。
「まさか、それも可能性のひとつよ。でも考えてみて、遠い記憶を辿ってみるのよ」
僕は少しだけ考えている素振りをした。会ったことはないと即答できたが、それでもなんだかこの女の子が言っていることが本当のことのように思えて、考えている振りをした、やはり記憶にない。男としての遺伝子、生殖本能が覚えている可能性を考慮しても、やはり全くといってなかった。
「——やっぱり初対面ですよ」
「そうね、私もそう思うわ」
彼女は僕の顔を顕微鏡のレンズでものぞくように観察して「はぁー」っとため息をした。僕はその様子を粒子レベルで細胞分裂繰り返す生物になった気分で観察された。
彼女は微笑み、風が髪をなびかせた。
「人の意識はね、共有していると思うの。たとえば、私は今朝コーンスープを飲んで、新聞を眺めて保育士の記事を目にして、コーギトドゥグラングールに会いにここまで来た」
「僕はパンプキンスープにフランスパンを食べましたけどね」
「でも新聞を読んでここに来たんでしょ?」
「そうですけど、それは新聞を読んだからこそですよ」
「その通りよ。そして実際にここへ来た」
「何が言いたいんですか?」
僕は彼女へ問いかけた。彼女はコーギトドゥグラングールの柵の前から歩き出し、僕は無意識に後をついていった。
「意識は波のように漂っていて、もちろん今もだけど、君の意識、私の意識どちらか脳に入り込み今日この場へ二人を連れてきた。でもそれって実はもっと深いところ、コーギトドゥグラングールって言葉の意味をどこかで知っていたから、二人はリンクしてこの場へ来たのだと思うの。ずっと昔からこの場所で私たちは会うことを決められていたのよ」
「そんなことってあると思います?」
「あるわ、実際に現象として今起こってる」
「インテリのナンパ術みたいですね」
僕はあきれてものを言う。
「確かにね」
彼女は微笑む。
「でもね、それは本当のことよ。そしてそれは夢を媒体にして回収されるの」
「夢?」
「そう、そしてもう一つ意識を共有できる方法があるわ。それが——」
彼女は自動販売機に折り目一つない千圓札を入れると、アサヒスーパードライを二つ買って片方を僕に投げた。
「境遇を共有することよ」
風は彼女が進む方角から吹いて、僕らは歩きながら缶ビールを飲みはじめた。呼吸をしてアルコールの匂いが脳を撹乱させているからなのか、彼女から女性特有の化粧の香りが強くした。それは、生きている人間本来の匂いを紛らわすように強調されていて、彼女本来の匂いは全くと言ってよいほどに無臭だった。
結局、コーギトドゥグラングールを見ることもできずに、彼女と一緒にゲートを潜り動物園をあとにすると強い眠気に襲われた。ずいぶんと疲れが溜まってたのだろう、缶ビール一本でこれほど強い眠気がきたのは初めてだ。
目の前の駐車場で『ナニカ』が手を挙げているのを確認すると、彼女は足早になる。『ナニカ』は運転手だろう。直感的に僕は確信した。何なのかもわからない『ナニカ』は確かに左手の人差し指が無かった。思った通り『ナニカ』はドアを開けて待ち彼女は当たり前のように乗り込み、当然のようにドアを閉める。僕はその様子を強い眠気と戦いながら見守っていると「では、おやすみなさい」と言われ軽く会釈をした。彼女は『ナニカ』に行き先を告げる。
「最初の信号を左に曲がって、そのまま道なりに六つ目の信号を右、次の信号を左に曲がって八つ目の信号を右に、百メートル進んだところで降ろして」
「どこですかそこは?」
僕は訊ねた。
「この世界のどこかよ」
彼女は微笑んで『ナニカ』はオースチン・ヒーレー・スプライトのアクセルを踏んだ。
僕は出発を見送ると直ぐに駅へ向かい、ちょうどよく電車に乗り込んだ。すごく眠い。腕時計で時刻を確認する。午前8時、電池切れか——空はあいかわらず、ふわふわのかき氷にブルーハワイを大量に注いだような気持ちの良い天気だ。風に流されたうすい氷雲がブルーハワイにとけ込み消えていく。寝よう、がたんごとん、揺れる電車の中で、僕の意識はすぐに雲のように漂いはじめた。
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