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あらかじめ決められた恋人たちへ「3」

 第1章 「巡り逢い・誕生・見知らぬ世界とハイバネーション」

    ☆4

 夢を見ていた。
 どんな夢だったのか思い出せない。でもボクは夢を見ていたことを覚えている。なんとなく覚えていることは、その世界でボクは僕だったことだけだ。
 
 ボクは『未知しるべ』の中から産まれた。未知しるべの中は温かく、潤滑であり、懐かしく感じる甘い液体で満たされていた。遠くのどこかで微かにガタガタと音が響いて、線香の淡い香りが仄かに漂っているのが感じられた。ボクはその音と香りに導かれるように軽く内側から触れてみると、思ったよりも簡単に未知しるべは破れた。
 
 意識が戻るとボクはベッドの上に横たわっていた。まだ夢の中にいるような気がして布団を撫でてみると、ごわごろとした手触りで妙に懐かしい感じがした。頭はズキズキする。
「目覚めたみたいだね」
 ボクは声の主人を顔を左右に動かして探した。
 彼女は甘い香りのする煙草を吹かしながら木製の古びた椅子に座ってボクを見ていた。同じく木製のテーブルにはまだ湯気が立ち上る木製の珈琲カップがあった。
「ここは?」
 ボクは蚊の鳴くような細々とした声で最初の疑問を彼女に投げかけた。
「順を追って話した方がいいわね」
 彼女は煙草を灰皿に押し当てカップを取り一口含んだ。
「ここはどこかもわからない場所、あなたはここに来る前のことを何一つ覚えていないし、もちろん私も覚えていない。でも確かにあなたはここに存在するし、私もこの場所に存在する。一言えることは、産まれてきて、おめでとう」
 ズキズキする頭を左手で摩りながらボクは上体を起こした。妙に身体がだるい。二日酔いのだるさでもなく、風邪を引いたときの身体のだるさでもない。無重力から重力を感じたときのだるさに似ていると感じた。そんな体験はしたこともないのにだ。
 そうか——これが誕生のだるさかとボクは思った。
 
 辺りを見渡す——木製、木製、木製。見渡す限り木製で出来たものしかなく、少しだけ開いたテラスの隙間からガタガタと音を立てて風が入り込んだ。ガタガタと音が部屋に響く度にボクはその音が、未知しるべの中で微かに聞こえた外の世界の音だと気がついた。
「君は誰なの?」
 ボクは二つ目の疑問を投げかけた。
「私はヒカリ。そう名付けられたから、そう名乗ってる」
「どういうこと?」
 三つ目の疑問だ。
「私たちの命には名前がないの。だから未知しるべから誕生を見届けた人物がその子に名前を与えるのよ。あなたの場合は私だけど、私が勝手に決めていいものじゃない。あなたの夢から名前を付けるのよ」
「ボクの夢から?」
「そうよ。未知しるべの中であなたは夢を見ていたはずよ。どんな夢だったの?」
 ボクは夢を見ていた。それは確かに思い出せる。その夢の中ではボクは僕だった。僕は毎日誰かとビールを飲んではくだらない話しをして、何かをしていた。何か? なんだったのか思い出せない。それ以前にボクは自身の名前を思い出せない。自分が誰だったのか、お父さん、お母さん、兄妹はいたのか? 何が好きで、何が嫌いで、どんな音楽が好きで、どんな本が好きだったのか? 頭がズキズキする。思い出そうとすると、ずっとずっと奥の方がズキズキ痛む。ボクは左手で強く頭を押さえた。
「名前を思い出そうとしたのね。考えてはだめよ。あなたは新生児なのよ」
 彼女は立ち上がり木製のカップに水を注いでボクに飲むようにすすめた。一口身体に含むと、胸の奥がすっと楽になった気がした。
「思い出すのは夢だけでいいの」
 瞼を閉じ思い出した。
 ボクの夢。
 夢の中でボクは夢を見ていた。夢なのか現実なのかも分からない世界にいた。思い出せるのはそれだけだ。
「それだけ?」
「ああ、それだけだ」
 彼女は深く考え込む。
「夢の中でも夢をみていた……」
「そう」
「ねえ——ユメギワって名前はどう?」
「ユメギワ——」
 ボクはその名前が良い名前なのか、悪い名前なのかも分からない。
 ただ、なんとなくその名前はボクのような気がした。
「ああ。それがいい」
「改めて、初めましてユメギワ」
「よろしく」
「今日はゆっくりとおやすみ」
 ボクは頷き、上体を動かしてベッドに横たわった。
 彼女が座っている椅子から長く伸びた灰色の尻尾が見えた。

     5

 ボクたち『ナキヤミ』には誓約がある。
 ヒカリは次の日、その誓約を箇条書きにしてボクに渡してくれた。
 ヒカリはどこか聞き覚えのある鼻歌を唄い、ボクは紙に目を通した。

     6

・『ナキヤミ』は人間と会話をしてはならない。
・『ナキヤミ』は金銭を所持することはできない。
・『ナキヤミ』は人間が使い古したものしか使ってはならない。
・『ナキヤミ』は色彩詩にならなくてはならない。
・『ナキヤミ』は毎日日記を付けなければならない。
・『ナキヤミ』は目覚めの日までに自らの名前を思い出さなくてはならない。
 以上六つの決まりを必ず守るように。

     7
 
☆人間とコミュニケーションを取るとき。
 YESの場合——尻尾を左向きに振る
 NOの場合——尻尾を右向きに振る。
 分からない場合——左向きから尻尾を一回転させる。
 右向き一回転は人間と取引をするときに行う。
 そもそも人間と会話をしてはいけないという誓約はおかしい。
 私たちは人間が話す言葉のすべてを理解出来ないからだ。
 そしてこれは『ナキヤミは人間が使い古したものしか使ってはならない』にもかかってくることだが。

(例)人間が着ている服が欲しいときの場合。
 正面に立ち右向き回転させる。人間は何が欲しいのか聞いてくるのでYESかNOで答えていく。
 Tシャツが欲しいのか? 右に振る。
 時計が欲しいのか? 右に振る。
 バッグが欲しいのか? 右に振る。
 ズボンが欲しいのか? 左に振る。
 ここで人間がオーケーを出せば交渉にはいる。

     8

 このとき、人間が提示した『文字』を払わなければいけない。
『ナキヤミは金銭を所持することはできない』
 ナキヤミは色彩詩としてこの街で働き、金銭の替わりに『内換記』と呼ばれる手帳の最初のページにその日働いた分の文字が支払われる。
 
 文字欄はこんな風になっている。
『あ』×参 『い』×八 『う』×伍 『え』×弐 『お』×壱
『あ』が十文字溜まれば『い』になる。
『い』が十文字溜まれば『う』になる。
『え』も同様。
『お』は十文字溜まってもそのまま。
 したがって、ナキヤミは定期的に文字を消費しなければならない。
 全てが十文字貯まっている状態でナキヤミは仕事をしてはならない。
 取引きが終了すれば、後日自分宛に荷物が届けられる。

     9     

『ナキヤミは毎日日記を付けなければならない』
 目覚めの日までに自らの名前を思い出さなくてはならない私たちは、一日の仕事を記して、記憶と今現在の自身の意識を記録する。 
 目覚めの日までに名前を思い出せない場合は、誰しもの記憶から忘れ去られるらしい。
 これはらしいとしか言えない。私にはその記憶がないのだから。

 私たちの仕事である色彩詩について。
 色彩詩とは、人間の夢を観察して文字にする仕事。
 夢には色がある。
 黄、赤、青、緑、黒。この五つの夢を観察する。
 あ、い、う、え、お。それがそのまま内換記に記される。

 最後に私たちが何故ナキヤミと呼ばれているのか?
 それは誰も知らない。

 ボクは全て読み終えると彼女を見た。
「ばっちりかな?」
 ボクはまだ使い慣れない灰色の尻尾を時間をかけて左向きに小さく振ってみた。
 彼女はにこりと頬を緩め、また鼻歌を唄う。


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