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あらかじめ決められた恋人たちへ『8"』終


第3章「別れ・再生・目覚めの日とシリアルストリーム」


第1章、第2章はここから

           

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『穴貸し』がいなくなって僕は今まで通りの日常が訪れた。
 彼女と過ごした七日間という短い時間に僕は新しい言葉を覚えた。
 そして理性を失っていった。
 それは麻薬のように中毒性のある言葉の集合体だった。
 その一つ一つの文字に異なる効果の副作用があるみたいだった。
 
 仕事から帰ると『穴貸し』はいつも笑顔で出迎えてくれて、何か分からない創作料理を作っていた。僕らは、まずいとか、これは美味いとかまるで長年連れ添った夫婦のように笑顔の絶えない空間を共有した。
 それでもセックスになると、僕はいたたまれない罪悪感の暗闇に襲われた。肉体的な関係を持つことが彼女に対しての裏切り行為であり、そして何より、目の前の女の子の持った暗闇を、僕は何も取り払うことのできない無力さに打ちのめされた。
 
 本当に、今思い出しても酷い痣だった。
 この七日間で少しだけ、本当に少しだけ痣は回復を見せていた。それだけで『穴貸し』が抱えている心の暗闇に蛍くらいの光を灯すことができたのだろうか?
 うん、たぶん出来たと思う。
 そう思わなければ僕自身が救われない気がした。
『穴貸し』は僕の家を出て、また夜の仕事に戻って行ったのだろうか?
 僕は『穴貸し』がいなくなって初めて自分の犯した過ちに気付いた。
 なぜ痣のことを聞くことができなかったのか、なぜ暗闇にもっと光を与えてあげられなかったのか、『穴貸し』はきっとあの痣を忘れるために僕のところに来たはずなのに、僕は僕の欲望だけを放出していただけだった。
『穴貸し』は料理をしたり、一緒にデートをして映画を観て、感想を言い合い、スタバで珈琲を買って、好きな本について語り合う。そんな普通の暮らしをしたことがなかったのではないだろうか?
 どうして彼女は僕の元を去って行ったのか?
「希望ってスクラップアンドビルドだと思うの——」
『穴貸し』の言葉がふと頭に蘇った。
 僕は『穴貸し』の言った通り、薄っぺらい幻想を彼女に見せていただけだった。
 蝋で固めた羽は七日間の偽りの自由を羽ばたいて、そして気が付いてしまった。
 自分の居る場所はここではないと——それでも何か一言でもあれば僕は——。
 終わってしまったことを嘆いても何も変わらないことは分かっている。
 それでも僕は何故? と問いかけずにはいられなかった。

          23

「ここは? また部屋の中?」
「ここは——私が産まれた場所」
「君が産まれた場所——」
「——そうよ」
「でもどうして、僕を連れてきたんだい?」
「私とあなたの物語を書くと言ったからよ——私はこの場所から世界に誕生した。私の物語はこの場所から始まったの」
 
 アパートの一室のような部屋だった。
 1Kの小さな部屋だ。
 キッチンは大の大人が二人入れば身動きが取れないほど小さくて、部屋に入るドアノブには金髪の少女の携帯ストラップが掛けられていた。風呂とトイレは一緒になっていて、人魚姫のプラスチック製の人形が湯船にぷかぷかと楽しそうに浮かんでいた。
 部屋には大きなベッドがあった。
 無造作に積み重ねられた絵本があって、見知らぬ男の子と女の子の人形が二体転がっていた。
「私の未知しるべはあのベッドの上にあった」
 ボクはベッドに目線を向けるとなんだか不安な気持ちでいっぱいになった。 
 この部屋は先ほどの部屋と違って、腐敗した臭いが漂っている。
 強い化粧品の匂いがそれを誤摩化すように——その隙間をすり抜け——腐敗した臭いがボクだけに襲いかかってきている。それは悲しみや苦しみを従えた臭いで、あまりにも多くの哀しみを含んだ臭いのようだった。
 
 それともう一つ、ボクはこの部屋を知っている。
 気がするのでなく、はっきりとこの部屋は知っていた。それは誰が住んでいて、どんな生活をしていたかではなく、あまりにも断片的なイメージが重なり合い、結果それを知っていると脳が確信していた。
「この部屋にどんなイメージを抱いてるの?」
 ヒカリはボクに訊ねた。
「創造と破壊——そんなイメージだよ。とても幸せで、とても辛い部屋だ」
 ボクは両手で前髪をかきあげたまま、部屋全体を見渡してみた。

 どれもボクは知っている。ベッドCDプレーヤーカレンダー化粧品の種類マグカップサングラス絵本テレビのメーカーふわふわのワンピース銀色のピアス姿見カラフルなハンガー香水冷蔵庫木製の椅子窓際に飾られた花落書きされた小さな伝言板少しだけ残っているペットボトルの容器チェックの布団プラネタリウム二人で映った写真立て——。
 ボクはどれも知っていた。

「ヒカリ?」
「何?」
「気になっていたことがあるんだ——。君の夢は絶望のような糸を身体中に巻き付けられていたって言ってたよね」
「そうね」
「でも名前はヒカリだ。なんだか君の名前は——」
 ヒカリはボクの言葉をさえぎり言った。
「本当のことよ。でも私は——一つだけ——私はその人のお腹の中でその光景を身体を小さくして観ていたの、その人は苦しんでいたわ。最後まで誰かの名前を呼んでいた。私にはそれがなんて言っているのか分からなかったけど——泣きながら名前を呼んでいた」
「名前を——」
「そして私はこの世界に産まれ落ちたの。赤ん坊の姿形をして——この部屋で産まれそして育った気がする」
「気がするってのはどういうこと?」
「一瞬だった気がするのよ。私が赤ん坊の姿で産まれてここまで成長する過程は本当に一瞬だった。幼い日、段々と成長して今の姿になったはずなのに、まるでそれまでの記憶を頭の中に直接埋め込まれているような気がするの。私は産まれた瞬間にあなたに出逢ったような気さえするのよ」
 部屋に漂う強い化粧品の匂いが腐敗臭を追い出すように、段々と蔓延しているように感じた。ボクは彼女を見つめて次の言葉を考えていた。

「——手紙があったの」 
 先に言葉を発したのは彼女だった。
「手紙?」
「一枚は私に宛てた手紙——そこにはあなたを目覚めの日に導くように書かれていた。そしてもう一枚あなたへの手紙と本があった」
 彼女はテーブルの上に置かれた小さな木製の小物入れのような引き出しの一番上から、一枚の手紙と、本棚から古くなった本を取りボクに渡した。
 そうだ彼女は最後の手紙をそこに入れていた。
 ボクは手紙をゆっくりと開いて見た。
「——読めないな——文字が分からないよ」
 彼女はくすっと笑った。それはまるでこの部屋で彼女が笑っているように思えた。
「私もその手紙は読めなかったわ。あなたも読めないのね」
「そうだね」
 ボクらはなんだか可笑しくなって笑った。でもボクにはこの手紙がいつの日か読める気がしてならなかった。それは根拠のない自信であって、ボクはそれが絶対的な存在であるような気がしていた。
「本は? 本は何か書かれているの?」
 ボクはページをペラペラとめくってみた。
 何も書かれていない。
 真っ白な本だ。 
 ボクらはまた二人して笑った。
「この本に小説を書こうと思うよ」
「私もそれがいいと思うわ」

「外に出ましょうか?」
「そうだね。そうしよう」
 
    24

 誰かの思い出の詰まった部屋。
 ボクではなく、たぶんどこかの世界にいる僕の思い出の部屋だろう。
 でもボクは感じている。
 世界のどこかにいる僕の想いを。
 きっとボクの想いも僕に届いているはずだ。 
 そうでなければボクの想いは救われない。
 もうすぐ夜が明ける。
 長い夜だった。
 扉を開ける
 今まで避けてきた扉だ。
 重い扉。
 やって来た道とは全く違う風景が広がっていた。
 とても綺麗な雲海が遠く、遠くまで広がっている。
 西の空が段々と明るくなってきている。
 雲海はこれまでに見たことないくらい黄金色に反射していた。
「夜が明けようとしてる」
「そうね、この世界にまた朝がくるわ」
「目覚めの陽が昇ってる」
 ボクらは太陽が昇る様子をいつまでもずっと、ずっと眺めていた。

         25

 こんな夢を見た。
 見渡す限りの青い世界に僕はいた。
 くるぶしまでの海水に雲は一つとしてない。
 実際にはただの淡水かも知れない。
 確かめる術を僕は知らなかった。
 そんな世界に一人だけだ。
 僕はただどうしようもなく走った。
 走ればこの世界から救われるそんな想いが巡っていたからだ。
 しかしどこまで走っても、走っても世界に終わりはない。
 それどころか世界の中心が僕自身であるかのようにどこまでも青い世界が続いた。
 何処から現れたのか?
 太陽は遥かに見える水平線に、その姿を半円に並べ橙に世界を変えていく。
 するとどこからか、人のざわめきが聴こえた。
「僕はここだ!」何度も叫び走った。
 僕の風景はざわめきとともに変化する。
 自身が世界の中心でなかったことを感じながら走った。
 微かな中心を目指して。
 どのくらい走ったのか、それでも太陽は変わらぬ姿を照らしている。
 やがてそれは見つかった。
 小さな丘があった。
 その丘には様々な人種がいた。
 裸だ。
 人種とはいったが僕には人間の姿に見えるだけであり、それが人間なのか分からない。
 そのとき、自身が裸であることを認識した。
「こっちだよ」誰かが言うと、僕は嬉しさのあまりに丘を目指した。
 細胞が中心を求めている。
 そんな気がしたからだ。
 そう気付いた瞬間からつま先はふやけ、感覚がなくなっていく。
 それは絶望だった。
 足元から迫りくる決して逃れることのできない呪縛。
 細胞は再構築され半身は瞬く間に老いていく。
 一つの器に自身がもう一人共存することは『恐怖』その言葉以外の何者でもなかった。
 丘に上がれば救われる。
 ただそんな根拠のない感覚のみが僕を支配していた。
 身体はもう、世界に降り立ったときの若さを失っていた。
 丘の前に着いた。
 そこには山猫がいた。
 マスターのカズがいた。
 三人組の頭皮が薄くなった男達がいた。
 鳩のピエロがいた。
 両親がいた。
 画像で見たコーギトドゥグラングールがいた。
 初めてセックスをした女の子がいた。
 海を愛した女の子がいた。
 ホープ・リヴィングストンがいた。
 ボクがいた。
 ヒカリがいた。
『穴貸し』がいた。
『命の別名』がいた。
 ロケットペンダントを『命の別名』が首にかけてくれた。
 救われた気がした。
 それは時計の針を巻き戻してくれる素敵な魔法のような気がした。
 丘に上がると、僕は初めて大地を感じることができた。

『おめでとう』 

 丘からの世界はこれまで僕が見てきたそれとは違った。
 この世界は虹色の文字だった。
 瞳に映るすべてが虹色の文字で、僕はこれが世界本来の姿なのかと無意識に感じた。
「綺麗な文字だ」
 僕はつぶやく。
 すると世界はモノクロームになり現実と夢のモンタージュが始まった。
 モノクロームと虹色の世界。
 たくさんの記憶がフラッシュバックする。
 瞳を閉じた。世界は無だ。
 瞳を開いた。そこにはモノクロームの世界に月明かりと空いっぱいのオーロラ。
 瞳を閉じた。世界は夢だ。

     26

「早く起きなよ」
『命の別名』に急かされて僕は目を覚ました。
「こんな朝早くになんだよ?」
「忘れたの? 今日は彼が帰って来る日でしょ?」
「そうだけど、成田に到着するのは夕方だろ? そのあと『SIX』集合なんだからこんな朝早くに起こさなくてもいいだろ?」
「何言ってるのよ。『穴貸し』ちゃんと表参道でランチの約束してるの忘れてるわけ?」
「そういえばそうだったね」
「じゃあ、家のことを済ませて出かけるわよ」
「わかったよ」
 もしかするとこんな日常もあったかもしれない。

 自分とは他人に認識してもらう記号だ。
 姿形、ほくろの位置に、つむじの生え方、目がつり上がっていたり、アトピー性皮膚炎だったり、指が一本無かったり、尻尾が生えてたり。
 僕が感じる僕は僕でしかなくて、他人には理解できない。

 この場所は自分を忘れさせてくれる。

 だから自分を理解しようとしないのかい?
「そんなわけじゃない」
 理解して貰おうとしたの?
「もちろんだよ」
 じゃあ何故、夢から覚めようとしないんだい?

 他人とは自分を認識する鏡だ。
 他人と違うところを知ることで自分をイメージする鏡であり、他人がいなければ、自分を認識なんてできない。
 人と人は違うのが当たり前なんだ。

 現実を悪く捉えているのは君の心だよ。
 人は自分の中の小さな心の物差しでしか物事を計れないのよ。
 真実と向き合うことは、他人と向き合うこと、そして己と向き合うことさ。
 君になくて僕にあるもの。 
 私にあってあなたにないもの。 
 僕は向き合ったよ、自分自身とね。だから君にも出来るはずさ。
 人の顔色ばかりうかがわなくていいのよ。
 いつまで経っても君は子どもだね。
 自分のことが好きになれるさ。
 君は君さ、もっと自由でいいんだよ。
 もう君は自分が誰なのか分かっているはずさ。

「君の名前は? 君の名前はなんて言うんだい?」   
  
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 最後に——
 結局、僕は夢際から抜け出して現実に戻ってきたかなんて分からない。
 それでも僕は現実を生きて行かなければならない。
 何がなんだか分からないこの世界を。
 それでも僕は生きて行かなければならない。
 人が巡り逢うこの素晴らしき世界を。

 山猫が旅に出て、もうどのくらい時間が経ったのか分からない。
 それくらい、僕は夢際を巡っていた。 

 ちょうど年が明ける少し前に山猫からメールが届いた。
 相変わらず元気そうだと僕は文脈から判断した。
 朝日を運ぶそよ風のように、あるいは春を待つ未来のように
 時計の針は知らず知らずに進んでいることに
 僕は初めて気が付いた。

 僕はこれから何度でも自分の名前を追いかける。
 それが真に美しい文章を探し求める術であるのなら—— 
 それが自由を理解する術であるのなら—— 
 それが夢から覚めることであるのなら——
 それが彼女に対しての償いであるのなら——
 僕は何度だって追いかける。

     28

〈題名〉幸せが産まれた日(もうすぐ)

〈本文〉 
 誕生日おめでとう(ちょっと早いけど)僕らは早いもので三十になる。
 君の方がちょっとばかし早いけど。僕もすぐ三十になる。
 君の誕生日の日はどうやら僕は忙しすぎて連絡もできないかもしれない(あくまで予定だけどね)だから先にこのメッセージを送っておくよ。
 僕は知っての通り今旅に出ている。
 今回はもう数年日本に帰ってないけど、僕にはやることがあったんだ。
 まず、この機会に謝っておくよ。
 君と面接が一緒になったことがあっただろ? 
 せっかく入った会社なのに一年もしないで辞めて、今更だけど君にはすまないと思ってるし、こんな僕といつまでも親友でいてくれてありがとう。
 僕は今、以前から交流の深いミス・バーンスタインの元にいる(いきなりこんなこと言っても君にはさっぱりだろうけど)
 ミス・バーンスタインは僕がいた施設の所長をしていた女性さ。あの頃もミス・バーンスタインだったのに今でもミス・バーンスタインなんだ(こんなこと言うとまだまだ婚期は逃してないわって言うんだ。あとミズにしなさいとよく怒られるんだけどね)
 まーそれはいったん置いて。
 僕が旅に出た理由。
 それは僕みたいに尻尾の生えた仲間達を世界中回って探してたんだ。
 彼女は僕の支援者で僕の考えに賛同してくれた。
 世界中を飛び回ってね。たくさん出会ったよ。
 ある仲間は迫害され、ある仲間は社会的に成功して、そしてある仲間は自ら命を絶った。
 僕は考えたんだ。人は皆、自分の中の常識で生きていることを。
 僕らみたいな少数派の人種(僕は僕らのことを新たな人種と位置づけることにした)が世の中に出てもなんら不思議ではない世界を創っていこうって。
 無いなのなら創ればいい。常識だってそんなもんだろ?
 遠い未来、尻尾の生えた人種が治める国だってあってもいいじゃないか。バチカンくらい小さな小さな国で、世界中の仲間達が暮らせば、一躍観光地にだってなるさ。
 そんな未来を僕は見たい。
 そのためには、まだまだ大きな障害がある。
 人の意識ってのは簡単に変わるもんじゃない。
 これから産まれてくる仲間達が安心して暮らせる場所を、まずは提供してあげたいと思ったんだ。
 幼い日の僕みたいにね。
 僕は今、本当の自由を手に掴もうとしているのかもしれない。
 自分の産まれてきた使命をやっと見つけたんだ。

 P・S
 君がハッピーバースデーってことは一月一日ってことか!
 ハッピーニューイヤー。お疲れさま、今年もよろしくお願いします。
 現実にだって自由は見つかるんだ!
 理想の恋人は相変わらず現れないけどね。

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野田祥久郎
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