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あらかじめ決められた恋人たちへ「2'」


第2章「記憶・歯車・意識的特異点とプラグアンドプレイ」

第1章はここから


  5

「よう、夢見てるか?」
『SIX』に向かう途中の三叉路で声をかけられた。車道から声を認識したが、反射的に振り返った。もちろんそこには誰もいるはずがなく、直ぐに隣りに停まったフロッグアイと目が合い、左の人差し指のない『ナニカ』がいた。
「乗れよ、目的地まで連れてくぜ」
 何の迷いもなく気が付けば僕は助手席に腰掛けていた。
『ナニカ』は言葉を話すことができた、それが一番の驚きだった。

 その声は渋谷センター街のど真ん中で録音された音声のように酷いノイズ混じりの声をしていた。

「どこに行く?」
 これから待ち合わせをしている『SIX』へ向かう途中だったことを告げると『ナニカ』は「オーケー」と言いアクセルを迷いなく踏み込み三叉路を右折した。 
「俺は大昔な、偉大なコーギトドゥグラングールって呼ばれていた時代があった。だがな、その時代はクソだった! 大衆の前でクソして飯食って寝てクソして退屈な時代だった。いつからか俺は外の世界に憧れた。夢ってやつだな。最近は夢を見るやつがいなくなった。寂しいことだ」
 僕は雨上がりのじめりとした風を肌に感じ、首筋を少しだけ掻きながら『ナニカ』の話しを聞いた。
『ナニカ』は間違いなく何者でもない『何か』だ。人間でもなければいつか画像で見たコーギトドゥグラングールでもない。
 
 暗闇だ。
 
 暗闇という何かに左手があり人差し指がない。僕にはそうにしか見えない。でも彼? は確かにかつてコーギトドゥグラングールだったと言った。僕があの日見たかったコーギトドゥグラングールとは似てもにつかない姿だ。名前を改めなければならない『かつてCDGだったナニカ』こんなところだろう。
「お前の夢はなんだ?」
「夢ですか? あんまり考えたことがないですね」
「つまんねーやつだな。俺はな、この箱船で宇宙へ行くんだ、もう世界は俺には狭すぎる、このフロントガラスから見える景色は俺の意識の延長上にある。大地にいるままじゃ、大地の意識しかわからない。海に出れば海の意識、俺は地球上どこでも行けるわけだ。あとはな——」
『かつてCDGだったナニカ』は人差し指のない左手を僕たちの間に突き出し拳を作る。 
「宇宙だ——そこで俺は宇宙の意識と繋がる」

     6

 二人目のガールフレンドは海を愛した女の子だった。
 夏の馬鹿に暑い日、一日中太平洋を二人で眺めた。
 潮風が肌にちくちくして、首筋の痒みは皮膚をぼろぼろにした。
 彼女は海と会話ができた。
 実際にできたかなんて分からないが、言葉を発することもなく眺めていた。
 休みの日のデートは決まって人影のない岩場に手作りのサンドウィッチを持参して夕凪を待った。波の綾が解れまだ男を知らない青い果実が僕の掌で熟れて、酸味のある蜜を含む度に、磯に隠れた白い鳥が恥ずかしそうに水平線へ羽ばたいた。
 真っ白なワンピース、フリルの付いたかわいい下着、ジーパンとボブ・ディランのTシャツをごつごつとした岩場に敷き詰めて抱き合った。
「私を感じることができた?」
 いつもセックスのあとに彼女は訊ねた。
「まだわからないな」
 そう言って二人で海に飛び込み、抱き合いキスをした。ぼろぼろの皮膚に海水が沁み込んで痛いと感じたけれど、それよりも彼女と触れ合う肌の感触が心地よかった。
 潮の流れは穏やかに時間を進ませて、遠くの遊覧船はいつまで経っても同じ位置な気がした。このまま一生僕たちは一緒だと思った。ただそれは僕の思い過ごしで、男女の別れなんて煙草に火を点けた瞬間から灰のように散っていくものでしかなかった。
 結局、彼女を感じることはできても『彼女』を感じることは僕にはできなかった。
 
     7

「遅いじゃないか! もう三杯目飲み終わるよ」
 山猫はあと一口で飲み干せそうなジョッキを高らかに挙げて言う。
「ごめん、途中で『かつてCDGだったナニカ』に会ってね」
 僕はカズにジョッキを二つ頼み、カウンターの高い椅子に腰掛けた。
「それでどんな物語を聞かせてくれるのかな?」
「そんな物語なんてないよ、人差し指がないだけさ」
「指がないだけか、それは確かに大したことないね」
 山猫は陽気に尻尾を小刻みに揺らす。
「それで? どんな話しをしたんだい?」
「それがよく分からないんだよ。車で宇宙へ行くって言うんだ。海に浮かぶこともできないのにね。この世界は俺には狭すぎるってね」
「それで?」
「それで、宇宙と意識を繋げるらしい……」
 カズがジョッキを二つ僕らの前に勢いよく置いた。琥珀色、白い泡が無い、ハイボール?
「なんだいこれは?」
 僕はカズに訊ねると、彼が答えるよりも早く山猫が答える。
「ご覧の通りハイボールだよ」
 そう言って口に含む。
「ジョッキはいつもビールだろ? ビールと言ったらジョッキだろ?」
「そんなことないさ。それは君の経験上の話しだろ? ジョッキと言えばビールが出てくるって思い込んでいるだけさ」
「でも前も、その前もその前だってビールだったじゃないか」
「確かにね、そこは否定できないよ。でもね、昨日正しかったことが今日正しいとは限らないのさ」
「なんだか納得いかないな」 
 僕は常識の範囲外にあるハイボールを仕方なく流し込んだ。

「君と出会った大学生の頃、僕が付き合ってたガールフレンドを覚えてる?」
「ああ、海が好きな素敵な女の子だろ? 名前は忘れてしまったけどね」
 僕はビールが入ったジョッキを流し込む。
「『かつてCDGだったナニカ』の話しを聞いていたらなんだか思い出したんだ」 
「それは良いことだね。あの子は自由だった」
「自由だった?」
「そうさ、心を自然に任せて、波の行き先に身を任せていたよ」
「そうなのかな……」
 僕は山猫が何を言いたいのか見当もつかない。
「でもね、本当に心に従って生きても、結果世界は正確な物理法則に基づいて流れていて、それが本当に心に従って生きているのかなんてわからないけどね」
「どういうことだい?」
「本当の自由についてだよ」
 
 カズがちらりと目線を僕らに向けたが、直ぐに洗い終わったジョッキを布巾で拭く作業へ戻った。水滴一つないように丁寧に底まで拭きあげるのは、彼にとって起床してトイレに行き、御飯を食べて歯磨きをするくらい当たり前のことだ。その様子を眺めながら先ほど頼んだピーナッツを奥歯で必死に噛み砕き山猫の話しを聞いた。

 「たとえば、僕はこれから左手でピーナッツを掴み、歯で殻を砕き、中の実を食べる為に口を動かして飲み込む。身体がアルコールを欲して右手でジョッキを掴んで口に流し込むと、椅子から垂れた尻尾がくるりと回る。ここには僕の意思がありそれに基づいて行動してるだろ?」
「そうだな」
「でも結局のところピーナッツを掴むにせよ、ジョッキを掴むにせよ、尻尾を回すにせよ、脳内で電気信号が起こり、ニューロンが興奮して神経に指令を出して筋肉繊維に動けと命じる。これは自由な行動と思うけど、物理法則や科学法則に基づいて行動している。人間なんて炭素とあとは水分で構成されてるもんだ、この世界の法則には逆らえない。でもね、僕はこれに抗いたい。自分とは何か、理解の外側に辿り着くには心に従うしかないと思うんだ」
「心か……。心ってなんだろう?」
 山猫はハイボールの入ったジョッキを持ち上げ軽く口に含む。
「なんだろうね? 僕はそれが知りたい」

 量子力学はどうだ?
 僕は訊ねた。
 不確定性原理による確率論なら結果は決定論的ではなく自由意思を理解できるじゃないかと。
 すると山猫は答えた。
 量子力学は役には立たないよ。
 量子は小さな小さな粒だ。
 マクロで覗いたものが法則性に従い流動しているのかと思っても、ミクロで覗けばそれは不規則な流動でランダムな確立でしかないよ。
 バファローズがリーグ優勝するような確立さ。まあこれは冗談だけれども——。
 でもそれが自由というのなら人生なんてクソだね。僕は嫌だ、それなら僕は歯車の方がよっぽどいい。
 だから今の世界観に僕らが入り込める隙間を探さなければいけないんだ。
 選択と責任について僕らは個を理解しなければならないんだ。

 科学は神に取って変わった。
 今の僕らはそう主張するだろう。しかし、あらかじめ神が人間の行動を管理しているというなら世界の物理法則すら神の意思なのだろうか? 
 科学は生活を豊にしてそれと同じだけ人間を殺した。それも神の意思か? 
 ただ、無神論者の僕が神だのなんだの言っても仕方がないことだ。
 
     8

「よう、やっとお帰りか?」
 山猫より先に『SIX』を出ると外はすっかり暗くなっていて、大きな赤いまるい月の下にフロッグアイが僕を待っていた。
「どうしたんですか?」
 僕は訊ねた。
「目的地まで連れて行くって言ったろ?」
「おっしゃられましたけど、ここがその目的地ですよ」
「違うね、お前の目的地は別の場所だ。乗れよ」
 言われるがままに助手席に腰掛ける。
 なんとなく何か話さなければならないと直感して、古い記憶を辿り伝言板に書いてあった指のことを訊ねた。
「俺の指が戻った? はっはっは、そんな御伽話みたいなことあるかよ。俺の指は俺の一部になってる。憧れの代償だ。檻を出るとき、指に夢を願い切断する。ここで一つ目の夢が叶うわけだ。そのあとホルマリン漬けにして、次の夢ができた暁にこんがりと生姜焼きにして食べるんだ。するとな、二回目の願いは俺の身体の一部になるというわけだ」
 僕はうすら笑みを浮かべる。
「見ろ! もうじき叶うぞ」
 その言葉を合図にフロッグアイがふわっと宙に浮いた気がした。いや、気のせいではなく空を走り出した。原理なんて分かるはずがない。
「ほら、叶うだろ。有り得ないことは有り得るんだ」
 僕は身を乗り出して言葉も見つからずに地上を眺めている。
 胸元のロケットペンダントはゆらゆらと月に照らせれている。
「出航だ! 固定概念を捨てろ!」
『夢が叶ったかつてCDGだったナニカ』は叫んだ。

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