あらかじめ決められた恋人たちへ「1」
第1章 「巡り逢い・誕生・見知らぬ世界とハイバネーション」
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「僕の育ったところがどんな場所か考えたことあるかい?」
山猫は何杯目かのビールを飲み終えると、ジョッキをカウンターにゆっくりと置いて珍しく上機嫌に訊ねた。
普段自分のことを話したがらない山猫が、今日に限って訊ねてきたことに、ひどく酔っぱらっているのか、あるいは小皿に無造作に積まれたピーナッツの殻に向かって話しかけたのかもしれないと、奥歯で砕いた殻を新しく小皿に飾り付けながら次の言葉を待った。もちろん殻は何ひとつ山猫に返答するわけもなく、仕方なく僕はその問いに答えた。
「あまり興味ないね」
「冷めたいな」
「黒髪にセンター分けで——少しだけ髪から耳を出した色白の女の子の話しなら、カクテルを一杯奢ってでも聞くけどね」
「僕の話しは?」
空になったジョッキの縁を指先でとんとん、とした。山猫は「そういうのは良くないな」と言いながら、マスターのカズに向けて左手で空のジョッキを持ち上げて、右手でピースサインをする。
「それで?」
僕はきんきんに冷えたビールを含みながら、大して興味のない話題を振る。
「君は僕が育った場所がどんなところか想像したことはあるかい?」
「さっきと文言が違うけど、まあ考えたことはないね」
「じゃあ想像してみてよ。僕は君の想像が当たってるのか当たっていないのか聞いているから」
「めんどくさいな」
「減るもんじゃないだろ」
僕はジョッキのビールを半分まで飲んだ。
「ビールは減るけどね」
「想像力は減らないさ」
二十歳を記念して、男四人で軽トラックの荷台に小さなバーベキューセットを組み立て、海沿いを夕陽を眺めながら交代で時速ニ十キロを保ち走った。荷台ではビールと肉と女の子の話しで騒ぎ、ラジオから流れたオリビア・ニュートン=ジョンの『カントリーロード』を歌い去りゆく青春の一日を過ごした町。夏の終わりだった。あとは? 漁港があって、もちろん小学校から高校まであって、コンビニは朝の七時に開いて夜の十一時に閉まる。
あと? そうだな——信号は三つしかない。知らない人からはAさんトコのぼんって呼ばれて、家を建てれば餅まきをする。他の三人? どうだろうな——幸せに暮らしてるんじゃないかな。
僕は今年二十代最後の年を迎えた。
山猫に初めて出会ったのは大学四年の秋の終わり、就職活動中のことだった。当時僕は『色彩詩(しきさいし)』を希望して毎日、御社の——、御社は——、御社でしか——、と声帯を震わせていた。
お祈りの連絡を受け取る度に、僕は何か重大な罪を犯したのではないかと心底震えその罪を考えた。ラクダに乗って魚釣りをした罪なのか、テールライトなしに夜中馬に乗った罪なのか、いくら考えても分からずに、そしていつしかその罪は恩赦でしか救われない気がして懸命に社会に訴えた。その甲斐もあって小さな会社に寛大な処置を賜った。そこで同じく恩赦を受けたのが山猫だった。
煙草のヤニで黄ばんだ刑事ドラマの取り調べ室のような場所で、僕ら二人面接までの時間を過ごしたことを今でも覚えている。壁一枚挟んだ空間に足音が近付く度、僕は女の子のスカートの中を想像したり、流れる雲の形を観察してみたり、天井の染みを数えてみたりして冷静を装った。結局何を考えても集中力は長く続かなかった。
「コーギトドゥグラングールって知ってる?」
彼は僕にとうとつに訊ねた。
それはまるで木枯らしを網かごですくう雪虫のような言葉の繋がりだった。
「今朝の新聞にさ、コーギトドゥグラングールの赤ちゃんが産まれたって記事が載ってあったんだ」
「その……、コーギトなんたらってのは?」
僕は曖昧な言葉を繋げると直ぐに指摘が入る。
「コーギトドゥグラングールさ」
「その、コーギト・ドゥ・グラン・グールってのは?」
数秒前の記憶を辿りながら、今度は間違えないようにゆっくりと発音した。
「なんでも猿の仲間らしい」
彼はそう言ってジャケットの内ポケットから煙草を取り出して躊躇することなく火を点けた。
「君は——」
「山猫でいいよ。本名なんてこの時代、有っても無いようなものだ」
意思疎通はできてないようだ。
「煙草はよくないんじゃないか?」
「体にかい?」
「いや、僕らは面接に来てるんだ。そんなところ面接官に見られたらどうする?」
「どうもしないさ」
「何故そう言える?」
「おかしなことを言うね。確かに僕らは面接に来てるけど、ここは喫煙所のようなところだ。何より僕らの前には吸い殻だってある。こんなところで待たされてるのに煙草を吸っちゃいけないなんてあると思うかい?」
「それは……」
僕は目の前の灰皿を眺め言葉を考えるが先に彼が口を開いた。
「コーギトドゥグラングール」
「え?」
「コーギトドゥグラングールの赤ちゃんだって、これから柵の中で暮らすことになる。たくさんの客に観られながらウンチだってするんだ」
「だから?」
彼は煙草を吸うと天井に向かって煙を吐き僕の目を覗いた。
「だから、人間なんてスーパーチンパンジーみたいなもんだ。もう一度赤ちゃんになってみればいいてことさ」
そう言ってにっこりと笑いまた煙草を吹かした。僕はわけも分からずに、コーギトドゥグラングールを想像してみた。猿の顔に手足が長く色は茶色か? 鼻は少しだけ赤くて尻尾がある。あとはどうだろう、鳴き声はキーキー鳴くのか。これじゃただの猿だ。
一度も見たこともない動物を想像するのは思ったよりも大変で、未知の生物をもし発見した場合、どんな風に接するのか気になった。
たとえば人類が火星に移住して新種のコーギトドゥグラングールを発見したときとか。
僕は改めて大きなため息をついた。
「どうだい一本?」
彼は僕に差し出して言った。もう一度大きなため息をついて受け取ると、テーブルの上にあった誰かのマッチで火を点けた。僕は煙草を吹かしながらコーギトドゥグラングールについて考えた。
一週間ほど過ぎてポストに合格の通知が入っていたときは彼に感謝した。
見ず知らずの彼とコーギトドゥグラングールのおかげだ。
それから数週間して親睦会が開かれ、そのとき初めて僕は山猫に尻尾があることに気がついた。
僕や山猫の他に数人内定者がいたが、似たり寄ったりの量産された教育を受け、思考の似た者ばかりだった。たぶん僕もその一部であり、山猫を見るとたまらなくどこかへ抜け出したくなった。
あれだけ祈りを捧げ願った内定が、山猫という存在でなんだか意味のないようなことのように感じた。何故だかなんて分かりはしない、なんとなくそう思った。この退屈と感じる世界から抜け出せそうな、そんな気がした。
僕は親睦会の後、山猫を飲みに誘った。彼は快く「オーケー」と返事をした。
「僕らみたいな人間を雇ってくれる会社があることに感謝しなければいけない。君もそう思うだろ?」
「ああ、その通りだよ」
僕らはバー『SIX』でビールを胃に流し込みながら話した。
「でも君はいいさ、どこから見ても普通の人間だ」
「君だって人間じゃないか」
「本当にそう思ってるかい?」
山猫は淡褐色で斑点のある尻尾を、高いバーカウンターの椅子からぶら下げて、楽しそうに左右に振りながら言う。『山猫』僕はそういうことかと納得した。
「尻尾以外は僕と何一つ変わらないよ。でも僕の方が顔がいいから女の子にはモテるだろうけどね」
「その点は素直に認めるよ」
毛並みの良い艶艶とした尻尾だ。ヒップの部分を綺麗に尻尾が通る隙間だけ穴の開いたジーパンにMA-1とコンバースが彼のファッションスタイルだった。パンツの穴は自分で切って縫っているのかと訊ねたことを覚えている。彼は笑いながら「専門の店があるんだよ。他に僕みたいなのに会ったことないのかい?」と言った。僕が「ないな」と答えると、また笑いながら「そうだろうな」と言った。
山猫は尻尾について最後に一つだけ言った。
「まだ慣れてないだけさ。直ぐに世界は慣れる」
それは正しかった。街行く人、得意先、当時付き合っていた僕のガールフレンド、数ヶ月もしない内に山猫に尻尾が生えているなんて気にもしなくなった。
僕はこの日、山猫に何故尻尾があるのか訊ねなかったし、山猫も実はこの尻尾はね、てな具合に語ろうとはしなかった。尻尾について話したのはこのときだけで、あとは女の子の話しに経済の話し、週刊誌をにぎわせている不倫や汚職の話しに、遠い国で起こっている戦争の話し、僕の父親が作る奇妙なトマトについての話しで盛り上がった。
たまに僕らは高台の岬を山猫のカワサキGPZ900Rで目指した。僕を迎えに来る際に遠くから尻尾をなびかせた姿が格好良くて、酔っぱらった勢いで量販店で尻尾のアクセサリーを買って真似してみたりしたが、ただぶら下がっただけの作り物は滑稽で、山猫が「君はもっと自由でいいんだよ」と僕を慰めた。
当時、山猫といると尻尾の生えていない僕の方が異端な気がして、必死に近付こうと努力をした。結果報われることなんて当然あるはずもなかったが、真似せずにはいられなかった。
それからというもの、入社までの大半の時間を僕らは缶ビールで埋め尽くした。意味もなくプルトップを収集して糸に通し暇つぶしにした。結局約四ヶ月の間に七百五十三のプルトップと、腹回りの脂肪を蓄えるとともに、ステイオンタブという正式名称と左右比対称であること、そして左利きの僕にストレスを与えるデザインだという知識を得た。
コーギトドゥグラングールの赤ちゃんのことなんてもはや頭の片隅になく、僕らの頭の中はアルコールとセックスのことでいっぱいだった。
「これから僕らは社会に旅立つんだな。右も左も分からないのにやって行けると思うかい?」
「大丈夫だよ。右か左が分かるのはこれからの潮の流れ次第さ」
入社当日の玄関前でこんなやり取りをした。
山猫はそれから一年もしない内に潮の流れに逆らった。
サポートしてくださるととても嬉しいです。これからの励みになります。美味しいコーヒーが飲みたい。がんばります!