『夢の外へ』~星野源はリアルも追求する~
以前の投稿でも書いたが、私は幼少期から星野源の唄に魅せられ、聴き続けてきた。前回は自分と星野源の経歴、それと重ね合わせつつ彼の曲について解説したが、今回は星野源の作詞から読み取れる彼の感性について考えたい。
今回紹介するのはこの曲!『夢の外へ』。結構知っている人も多いのではないか。彼の3rdアルバム『Strenger』に収録されている楽曲。アルバムの中でも特に明るいナンバーとなっており、このアルバムで高い人気を誇っている。
特に3拍子に転換するメロディ、
「自分だけ見る世界と 大勢で見る世界の どちらが噓か選べばいい 君はどちらを行く 僕ら真ん中を行く」という歌詞が個人的お気に入り(後でまた出てくるので、覚えといて👍)。
曲の紹介はここまでにして、今回なぜこの曲を取り上げることになったか。この曲を聞いている時にふと思ったことがある。それは、
「夢の外へという曲があるのなら、夢の中を歌った曲はあるのかな?」
そう思った私は調べてみたら、色々出てきた。沢山ある。具体的には、
井上陽水『夢の中へ』、銀杏boyz『夢で逢えたら』、ラッツ&スター『夢で逢えたら』、竹内まりや『夢の続き』等、枚挙にいとまがない。どれも素晴らしい歌の数々であることに間違いなく、聴いてみることを強くお勧めする。
銀杏boyzに関しては特にそうだろう。「夢で逢えたらいいな」というフレーズが印象的であるように、自身の理想とするものや願いを反映させてくれる場所として、夢という仮想空間を位置付けており、それに対する憧れであったり、美化の念が感じ取ることができる。
逆に、「夢の外」というワードで曲を検索しても、星野源の『夢の外へ』のみ。
ここで私は一つ、この曲を作った理由に対する一つの結論を思いついた。
「この曲は夢の中を歌った曲の数々に対する彼なりのアンサーソング、或いはカウンターカルチャーとしてこの曲を位置付けた」、ということだ。
井上陽水の『夢の外へ』を知っている人ならば、案外気が付いている人も多いかもしれないが…
要するに、「夢のままで、空想のままで完結していいの?」という問いかけをリスナー側に提供しているはずだ。
そう思って、曲の作曲秘話的なのを漁ってみた。すると、早速面白い記事を見つけた。
星野源オフィシャルサイトにて、この曲は銀杏boyz の『夢で逢えたら』に影響を受けているとのこと。
やっぱりな(笑) という感じだった。どうしても会えない存在、手に入れられないものが夢に出てきたら、そりゃ嬉しくない人なんていない。
「ただ、それを現実にできたら、もっといいよね、幸せだよね…」
星野源は銀杏の儚い唄を聴き、このようなインスピレーションを受け、『夢の外へ』を生み出したそう。
また、『夢の中で』と対局の存在である井上陽水『夢の中へ』に関しては、何も意識してなかったらしい。
この曲は、現実逃避先として「夢」を位置付けていたり、「肩の力を抜いて生きなよ」みたいな、オプティミスティックな思想が垣間見える。
『夢の外へ』は対して、生命力溢れるような、全身に血が回るような、歌になっている。
「虚構に入り浸るだけではなく、外に出よう!そして虚構を現実にするんだ!」という思想。これは引きこもりと化していた自身の幼少期の内省やタレントとして活躍する彼なりの人生のモットーが内包されているはずだ。
ここで、僕は思い違いをしていたことに気が付いた。『夢の外へ』は、既存の曲に対してのアンチテーゼとしてではなく、「中庸的な人生観」を私たちに提供しているのだと。
それが見られるのが『日常』という曲。以前私はこの曲が星野源が好きになるきっかけになったという記事を投稿したが、違った切り口で紹介したい。
曲の二番目の歌詞に
「みんなが嫌うものが好きでも それでもいいのよ
みんなが好きなものが好きでも それでもいいのよ」
という歌詞があるが、このなんてことない歌詞に衝撃を受けた。
よく、「他人の目なんて気にするな!」や「自分を信じて!」、「誰に何と言われようが自分は自分」といった歌詞は結構目にするが、所詮は人間。
大半の人間なんて世間体を気にしながら、他人と比較しながら、生きていくのが人間の性。意外とこんなことが書かれてる歌って、見たことない気がする。
「他人の目を気にしても別にいいよ、勿論、気にしないで生きるのもいいよ」 こういった、中立的な立場で、どっちも大事だよねみたいなスタンスが、彼の考え方の醍醐味である。これくらいの、気取らない気持ちで後押ししてくれた方が、様々な束縛から解放されるような気がする。
彼の中庸を行く考えは、『夢の外へ』にも反映されていて、冒頭で私が好きだと書いていたフレーズを参照して欲しい。自分だけが知覚する「主観的な」物事、大勢の人々が知覚する「客観的、大衆的な」物事、二項対立的に列挙しながら、三つ目の選択肢として「真ん中を行く」と歌っている。
人は、どうしても物事を二項対立的な視点で物事を捉えてしまいがちだ。例えば、勉強とゲームにおいて、勉強は「正しいこと」、ゲームは「悪影響を及ぼす良くないもの」と捉えたり、先進国と発展途上国で物事を語ってしまうなど、人間の二項対立的な視点は世の中の様々な部分に顕在化している(勿論、二項対立で捉えた方が物事を語ったり、カテゴライズし易いという側面があるが…)。
星野源はそういったただ一つの物事が正で、或いは優れているといった考え方にとらわれることは無い。あれもこれも取り敢えず受容し、止揚し、高次元への考えへと発展させていく。そして、自らの血肉にしていく。
歌手だけにとどまらず、作家やラジオパーソナリティ、俳優といった様々な業種やコンテンツに足を踏み入れる彼の生き方にこういった考えは大きく反映されていると私は感じる。
こういった柔軟な思考は、きっと新しい体験を私たちに提供し、人生を豊かにしてくれると信じており、私の生きる上での指針となっている。
さいごに
私は常に星野源の考えや生き方に魅了され続けてきた。その理由は何事も許容し、多様な価値観を持ち、尚且つ彼の曲や言動を通して一貫性を保ち続けているからだ。
先日、私の所属するゼミで、「現実と虚構、どちらがいいと思いますか。」という議題が挙がった。私は即座に星野源の『夢の外へ』を想起し、「どちらもいいと思う」と答えた。
やはり、人生において、自分が否定したいものだったり、嫌いな物事、人物は必ず存在する。そこで白黒つけたり、断絶するという行為から脱却し、受け入れる。そうすることで、自分の人間としての器量や生き方、考え方の幅は大きく広がり、人生は豊かになっていくと考えている。
多様性が叫ばれる時代で、マイノリティを重視しろ、といった言論がニュースでも蔓延り、ネットでの議論が白熱しているように思える。だからといって、マジョリティの意見を即座に否定していい訳でもないし、マジョリティの考えが真である、という訳でもない。そういった世の中の様々な問題に対する、完全な一つの解は存在しないのではないか。
どちらかに傾倒するのではなく、あくまでバランス。調和。それこそが多様性のあるべき姿であり、星野源の実現したい世界に通ずるという私なりの解釈である。
みんな、星野源のような、寛容な人間を目指そう!!
ドラマ『不適切にも程がある』の言葉を引用させていただくと、「寛容が足りないんだよ!、もっと寛容になりましょうよ!!」
夢の話から随分と飛躍しすぎたが、これで今回の記事は終わり。3000字を超える比較的長めの文だが、最後までありがとうございました。
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