【短編小説】旅するチェロ
——僕はいったい、何者なのだろう。
僕には今、服がかけられているけど、
物干し竿ではない。
僕は今、部屋の隅に置かれ、埃を被っているけど、
観葉植物ではない。
僕の隣で一匹の黒猫が昼寝をしているけど、
あたたかな人間ではない。
茶色い大きなからだで、体のてっぺんから真ん中まで太い弦が引っ張ってある。
そう、僕はチェロだ。
『旅するチェロ』
「もの」はこの世に生まれるとき、必ず目的を持っている。
物干し竿は、衣服を干すことが目的。
観葉植物は、人が見たときに楽しませることが目的。
チェロは、人に弾いてもらって音を奏でることが目的。
だけど、チェロの僕は〈君〉に、長い間ずっと、弾いてもらっていない。
今の僕は、はたしてチェロだと言えるのだろうか?
(今日こそは君に弾いてもらって、堂々と僕はチェロなんだと、言いたいな)
だけど、僕の持ち主である〈君〉は朝から出かけてしまっていて、まだ帰っていない。
きっと今日も夜遅くに、ふらふらな体で帰ってくるのだろう。
昔の僕と君は、毎日、朝から晩まで音楽隊で演奏し、夜も家に帰って、月を見ながら小さく、二人だけの音楽を奏でた。
君は重い僕を、暑い日も寒い日も、その大きな背中で背負って、いろんなところに連れて行ってくれた。汚れないように、いつもぴかぴかに磨いてくれた。
とても輝いた日々だった。君はとても優しかった。
そんな君が、僕は大好きだ。
◆
——がちゃり。
君が帰ってきた音だ。
機嫌が良い時もあれば、とても悪い時もある。さて、今日はどっちだろう。
——がしゃん。
残念ながら機嫌が悪い日だ。君が壁に向かって、食器を投げたのかもしれない。食べ物をのせるために生まれたはずが、可哀想に。
君が台所から現れる。僕は叫んだ。
(夜だけど、僕を弾いてほしい。頑張って、小さな小さな、音を出すから)
だけど、君は独り言を呟きながら、僕を一度も見ずに、そのままベッドに入ってしまった。
君の瞳に映らない僕は、一体、何者なのだろう。
◆
「爪とぎ器」
そう言いながら、鋭い爪を僕に向けているのは、近所に住む黒猫だ。
毎日、少しだけ開いている窓の隙間からこっそり入ってきて、この部屋でのんびりする。
「僕は爪とぎ器じゃない、チェロだよ」
「でも何年も弾いてもらってないじゃないか、なら俺の爪とぎ器になってくれ」
黒猫はいじわるだけど、一人で退屈な僕にとっては良い話し相手だった。
だけど、天気の話でもしようと思っていたら、いつのまにか、黒猫は僕を日陰にして昼寝してしまった。また、退屈だ。
——ぱっぽ、ぱっぽ。
遠くから、かっこうの歌が聞こえる。森の音楽家が窓の外から話しかけてきた。
「やあ、チェロ君、元気かい」
「元気さ。君の音楽が聴けたからね。僕がチェロだってことも思い出せた」
「そうかい、たしかに今の君は物干し竿だ」
「やっぱりそう見えるかい?」
「残念ながらそうだね。でも大丈夫。僕がとってあげよう」
窓の隙間から軽やかに飛び込んできたかっこうは、くちばしを上手に使って服をどけてくれた。
「ありがとう、これで少しはチェロらしくなったかな」
「君はもともと立派なチェロさ、あとは音楽を奏でるだけだ」
音楽家は歌いながら飛び去っていった。
悔しい気持ちになった。
今日こそ、君に弾いてもらおう。君の服もどけてもらったし、昨日よりチェロらしくなった僕を見た君は、音楽隊での日々を思い出してくれるかもしれない。
◆
——がちゃり
君が帰ってきた音だ。いつの間にか夜になっていた。さっきまでいた黒猫も、夜に溶けたみたいにいなくなっている。
——がしゃん
という音はしなかった。
もしかしたら君は、機嫌が良いのかもしれないぞ。
君が部屋に入ってきた。
君は、〈なにか〉を持っていた。
それは、僕を弾くための弓ではなかった。
金槌だった。
君が金槌を振り上げ、僕を打とうとする。僕は本棚でも食器棚でもないのに。
僕は——。
——がたん
金槌は振り上げられたにもかかわらず、それは振り下ろされることはなく、君の手から離れ、床に落ちた。
——ぽたり。
水滴が落ちる音。君は床につっぷし、小さな、小さな音で、泣いていた。
泣いている君を見て、僕はようやく分かった。
僕はチェロで、そして君は心の優しいチェロ弾き、だった。
でも、今の君は、ものを壊し、笑顔を忘れ、優しさを失くしてしまっている。
それは、僕のせいかもしれない。
音楽が、君を苦しめているのなら、僕は、ここにいてはいけない。だって、僕がこの部屋にいる限り、君はチェロ弾きであることが忘れられない。
僕は、僕がいることで、君に苦しんでほしくなかった。
君の蒼白い寝顔を見ながら、僕は計画を立てた。
◆
次の日、君がいつものように出かけてから、遊びにきた黒猫とかっこうに、僕の計画を相談した。
「おもしろい。俺たちも退屈していたのさ!」
まず、黒猫がごみ捨て場から古新聞を運んできて、彼の鋭い爪で「文字」を切り取った。
かっこうは器用なくちばしで、その「文字」を僕の上に並べて、ふたりは協力して、テーブルの上に転がっていた蜂蜜を塗って、僕に「文字」を張りつけた。べたついて気持ち悪かったけど我慢した。黒猫は我慢できずにうまいうまいと舐めていた。
そのあと、黒猫の友達が大勢やってきて、重い僕を部屋の出口の方まで動かしてくれた。かっこうが先を行き、扉の鍵を開け、ドアノブを回した。
何年ぶりかの外だった。
猫たちは最後の力を振り絞り、僕をアパートの玄関先まで運んでくれた。
「ありがとう。最後に爪を研いでいくかい?」
「残念、今はへとへとだ。またにするよ」
親切な友人たちは去っていった。僕は一人で待った。
僕の体には、優しい彼らが貼りつけた「文字」で、こう書いてある。
——ぼくに たびを させて ください
◆
旅はまず、ごみ収集のお兄さんと一緒に始まった。
僕の旅が、始まった瞬間に終わりを告げるのではないかと焦ったが、お兄さんは僕を車に乗せ、駅前の楽器屋さんに連れて行ってくれた。
楽器屋のおじさんは僕を見て、しばらく考えた後、駅員さんの所まで僕を背負って行ってくれた。
駅員さんは少し困ったようだったが、正午の汽車に僕を乗せることを許してくれた。
先頭車両の窓際の空いている席に僕をのせ、僕がころばないように、ベルトで座席に固定してくれた。
汽車が出発して、しばらくすると、隣にひとりのお姉さんが座った。
「少し暑いわね」と言い、閉まっていた窓を開けてくれた。
勢いよく風が入り込む。僕はこの景色を知っていた。
春だ。
あたたかく、花と葉の香りがただよい、幸せを感じる、優しい世界。
僕は誰にも教わってもいないのに、春というものを知っていた。
なぜだろうと考える。そうだ。音楽隊の頃、君と一緒に春の曲を演奏した。春をすでに知っている君が、僕を弾くことで、僕は春を知ったのだ。
僕はひとりのはずだったが、ひとりではない気がした。
君に教わったことと一緒に、僕は旅をしているのだ。
◆
お姉さんが降りていった後、ある家族が僕の周りの席に座った。
「おかあさん、この大きな楽器はなんていうの?
「チェロっていうのよ。とても深く優しい音をだすの」
二人の幼い兄弟は、チェロを初めて見たようで、嬉しそうに弦をはじいた。
汽車が終点に着いた。だけど僕の旅は続く。もっと遠くへ。君が追いつけない、遠いどこかへ。
次に乗る汽車まで、兄弟は僕を一生懸命運んでくれた。
◆
次の汽車は人でいっぱいだった。
疲れ切ったおじさんが僕にもたれて居眠りしたり、優しいおばあさんが、窓からの雨に濡れてしまった僕をハンカチで拭いてくれたりした。
おばあさんは、バッグから深緑の表紙の日記帳をとりだし、ページを一枚破って、そこに文字を書いて、僕に張りつけた。
——ぼくにたびをさせてください
雨で消えかけていた文字を、もう一度書き直してくれたのだ。
出会った人たちは、僕の願いを手伝ってくれた。
駅員さんの広い背中にのせられ、汽車から汽車に乗り換える。
「頑張れ」と僕を撫でる人。
山の名前や川の名前、動物たちの名前を教えてくれる人。
寒い夜、僕に毛布をかけて、レコードの音楽を聴かせてくれる守衛さん。
僕はたくさんの人と出会った。
僕はこれが、優しさだと知っている。
優しさは、君が僕に、初めて教えてくれたものだから。
優しい人に出会えば出会うほど、僕は君を思い出した。
春を、夏を、秋を、冬を知れば知るほど、君との音楽を思い出した。
(なにかを思い出すために、人は旅をするのかもしれない)
行きたい場所はないけれど、できるかぎり、僕は遠くに行きたかった。
君が僕を探せないぐらい、遠くまで。
僕がいなくなって、チェロ弾きでなくなった君が、
あの街で、優しい心を思い出して、また音楽を好きになってくれるその日まで。
何年も、何十年も、神様、僕に旅をさせてください。
◆
『……?』
◆
『……ぼくは、いったい、なにものなのだろう?』
◆
旅を続けるなか、チェロは自分が何者であったのか、忘れていきました。
◆
とある春の日。
僕には今マフラーがかけられているけど、
寒がりの子犬ではない。
僕は今汽車に乗り、窓から何度目かの春を眺めているけど、
寂し気な旅人ではない。
僕は今、
泣いている君に抱きしめられているけど、
君の恋人ではない。
——その時、僕から音が聴こえた。そして僕は、やっと思い出した。
僕は茶色い大きなからだで、体のてっぺんから真ん中まで太い弦が引っ張ってある。
(僕はチェロだ)
僕は、チェロ弾きに戻った君と旅をする、
旅するチェロだ。
おわり