【掌編小説】入道雲の裏側
私は立ち止まり、踊り場の窓からの景色を見上げた。
学校の裏山の向こうから入道雲が、この小さな田舎町すべてを抱きかかえるかのように立ちのぼっている。
ぼうっとしていると不意に声をかけられる。振り返らずとも、その柔らかな声で先生だと分かった。
「1年5組、今から演劇リハだよ」
「分かってます。先生を待ってたんですよ」
どちらからともなく、私と先生は並んで階段を降り始めた。
「演劇の進捗はどう?」
「やばいです。お盆休みでみんなセリフぬけちゃってるし、そもそも髪の毛染めたやら遅刻の指導やらで、放課後の練習すらままならないです」
髪色と一緒にセリフまで抜けちゃったかと先生は笑う。
全然笑えないですと、私も笑う。
担任を持っていないとお気楽ですねと内心思いながら眺めた、先生の顔色は蒼白かった。先生は体育館ステージの係なのだという。文化祭前で忙しいのは生徒も教師も同じなんだなと、言葉を一つ呑み込んだ。
校舎二階から外に出て、体育館に繋がる外廊下を渡りながら下を見ると、青と赤の二台の自販機が三角コーンで封鎖されていた。
「また入ったんですよね、自販機荒らし」
「暑いなかご苦労様だね」
「絶対捕まるのに、ばかだなぁ。いま捕まらなくても自販機のお金なんてたかが知れてるし、結局真面目に働かなきゃ意味がないって、なんで分からないんですかね」
そう話しながら、自販機荒らしの後ろ姿が脳裏に浮かぶ。
暗闇の学校。体育館。
自販機から漏れる光だけが異質に輝いている。
その光を反射するのは、バールのような形状の凶器と、潤んだ瞳に揺れる狂気。
乱暴に自販機の扉がねじ開けられる。じゃらじゃらと零れ落ちる小銭。
はいつくばって小銭をかき集める丸い背中。
じゃらじゃら、じゃらじゃら。
自販機と一緒に壊れたモノ。
道徳心、人間の尊厳、未来の可能性。
じゃらじゃら、じゃらじゃら。
飛び散る玉のような汗。
ああ、惨め、惨め、ほんっとうに惨め——。
「そうだね。でも……」
瞬間、八月の太陽が姿を消し、先生の横顔に影が落ちた。
さっきまで裏山の向こうにいた入道雲が、私たちの真上を通り過ぎようとしていた。
「心が少しも、壊れていない人間なんて、多分、どこにもいないよ」
「……え?」
先生の言葉の意味が分からず、息が一瞬詰まった。
「もう、行かなきゃね」
先生は私に微笑みかけ、暗幕で真っ暗な体育館の中へと消えていった。
私は初めて、先生を、怖いと感じた。
そして、この人は大人なんだなと、よく分からないことを思った。
美しく立ちのぼっていたが突如、大雨を降らせ、雷を落とすあの入道雲のように、
先生の心の裏側にも、私にはけして見えない負の感情が、激しく渦巻いているのだろうか。
ひび割れたチャイムの音が響く。
私はようやく、暗闇の体育館へと足を踏み入れた。
(了)