初秋の神戸大阪奈良京都ツアー2024⑧美しい春画-北斎・歌麿、交歓の競艶-(細見美術館)
の続き
地下鉄で移動。
残念ながら全て撮影不可。まあ今回の内容だと永遠にムリかもw。そして再入感出来ないのはいいとして、いくつかある展示室を一度出たら最後、前の部屋に戻ることも叶わない。
会場はかなり混んでいた。ほんと皆さんこういうのお好きね(お前もだ?)。人の頭を縫うようにして作品を鑑賞していき、その隙間から最初にばっちり目に入ってきたのがこの作品
《耽溺図断簡》絵師不詳
天明年間~寛政年間(1781~1801)
これは衝撃を受けた。醜女なのよ。「美しい春画」じゃないじゃん! オトコに乗られてほっぺたにブチュー!👄 鼻の穴をでかくしてフンガー👃!とよがり顔。お互い老いた腐臭のしてきそうな接合部の生々しすぎる出し入れ。
巻物絵で横に長い画面を利用してふたりの重ねた顔から合わさった腰ともつれた足まで等身大で実際に寝そべっているようにうまく収めてあるこの臨場感。
こんなのどこかで見たなと思ったら、これか
キャプションによるとこれは年増の女と還暦を過ぎた店の旦那がよろしくやってるところということだ。
こういうのはどういう需要があったのだろうか。ブス専の趣味の方もいらしただろうし、画家の「理想ではなく市井の人びとのありのままをワシは描くのぢゃっ」という崇高な芸術的信念があった可能性もある(のか?)。
当時の美意識だとあの女性は美形の部類だった?いやいや同時代の美人画でもこんなお顔の人はいない。
海外でもわざわざブス女を描く絵があるけどね。
醜女の肖像(しこめのしょうぞう)
クエンティン・マサイス
でググるとけっこうキツイのが出てくる。
その他、男が商売をしているとか、還暦を迎えているとか、女はその妻とかどうしてわかるんだろう。何かそれを指し示すサインがあるんだろうか(男が赤い服を着ているから還暦?)。あるいはバックストーリーがあるのかな。この作品は巻物だが、前後に続きがあるんだろうか。
会場で、女性二人組とかが冷静にこの営みの様子を観察して「(キャプションにあるのは)ここのお肉がたるんでるってことじゃないの?」とか自分の腿肉を触っているのはなかなかクるものがあった。
日本画や浮世絵に描かれる女性はのっぺりとみな同じような顔をしていて区別が付かないと思う人は多いだろう。私もそうだ。西洋の人物画はまったくそんなことはない。美形補正はあっても基本的にはその人とはっきりわかる描き方をしている。
昔の日本の絵師はそんなふうに人の顔を描く技術がなかった? それはないだろう。この醜女を見る限り、モデルがいたかどうかは別として肉感のある個人の顔を再現している。
これまで「なんで昔の日本人の絵はみんな同じ顔?」の謎をあれこれ考えた。
ひとつには、顔に関心が薄いのでないか? 日本人は非常にアイコンタクトをしない文化と言われる。お互い顔を見ない。実際そうだ。
日本に長居した外国人が本国に帰ってアイコンタクトが減っていることに周りから気味悪がられたみたいな話は何度も聞いた。
更には、絵を制作する場合、ひとではなく、花鳥風月や反物の美しいガラをアピールすることが目的のため、人の顔はむしろ無個性(記号)であって欲しいというマーケティング上の理由があったのか?
んなアホなと思うかも知れんが、(今でもそうか知らないけど)日本で絵の値段は「号いくら」で決めていたという。まるっきり反物扱いじゃないかw。
こうしたところに、「個性的な顔」の作品を目の当たりにして衝撃を受けたということだ。
🫖🫖🫖
後は要するにヤッてることはほぼ同じなので時間もないしざ〜っと眺めた。ただ毎度思うことに、顔料とかさぞかし品質の良いものを使っているのだろう、どれも輝いていた。エロは高く売れるのよね。
いつぞやの「春画展」で見たものと同じものもたくさんあったのかも。
参考図書
さあ次はニンテンさんだぜえはあ(さすがに疲労困憊)