実数が、非実在的であるように思うこと
このごろは、指数関数$${e^x}$$について、あれこれと考えています。
私の数学の理解は、高等学校レベル(数学III:微分と積分)程度で、大学レベルの数学は、例えば、集合論の入門書を読んで、何度も挫折しているような感じで、ほとんど理解できていない状態です。けれども、数学というものも、哲学の本を読むのと同じように、挫折を繰り返しながらも、少しづつ理解が深まっていくのかもしれない、と最近は思うようになりましたので、長い目でみて、ゆっくりと進めようと思っています。
さて、指数関数$${e^x}$$ですが、おおよそ最初は、この記事を読んでいました。
三角関数と指数関数の積の積分を一発で求める公式 | 高校数学の美しい物語 (manabitimes.jp)
三角関数と指数関数の積の積分を求めるということで、リンク先の数式をここに書ければよいのですが、noteで数式を書くのは今回が初めてなので、(また、TeX形式で書かなければならないようなので、)あまり難しい数式は、ちょっと今はスキップして、後ほど(改稿の際に)チャレンジしたいと思います。
上記リンク先の、三角関数と指数関数の積の積分の話に戻りますが、私は、原始的な手法が好きなので、単純に、部分積分を2回繰り返して、リンク先に書いてあるとおりの、積分結果を得ることができました。
けれども、上記リンク先では、「三角関数と指数関数を統一的に議論するための道具であるオイラーの公式と複素指数関数を用いて2つの公式を同時に示します。」ということで、指数関数$${e^x}$$の定義域を、実数から複素数に拡張することを考えるのです。
ここでいう、オイラーの公式とは、
$${e^{i\theta}=cos\theta+isin\theta}$$
というもので、ここでは指数関数$${e^x}$$の定義域が、実数から複素数に拡張されています。
この拡張については、以下の記事を読みました。
e^xのマクローリン展開,三角関数との関係 | 高校数学の美しい物語 (manabitimes.jp)
ここでは、指数関数$${e^x}$$を、マクローリン展開してから、その式に含まれる$${x}$$に、複素数を代入するという方法で、関数の定義域を実数から複素数に拡張しています。(※説明によると「解析接続」というようです。)
こうして、$${x}$$が実数から複素数に拡張されましたが、そもそも考えてみると、$${e^x}$$の$${x}$$が実数であるということも、実はよく理解していない、ということに気が付きました。
例えば、$${e^3}$$は、よく理解できます。$${e}$$を3回かけるわけです。また、$${e^\frac{2}{3}}$$(有理数乗)も、まあわかります。$${\sqrt[3]{e^2}}$$ということですね。
でも、$${x}$$が実数ということは、無理数乗もあるわけです。例えば、$${e^{\sqrt{2}}}$$というのは、どういう意味なのでしょうか。いままで、何も考えないで、指数関数を扱っていましたけど、無理数乗って何だろう…。
同じような疑問を抱く人は、当然にいるわけで、こんな記事(PDF)を見つけました。
【指数関数の定義について】
http://takeno.iee.niit.ac.jp/~shige/math/lecture/misc/data/exponential1.pdf
他にも、いろいろな方が、無理数乗について書いているようです。
さて、無理数乗の定義については、これから勉強してみるとして、そもそも、無理数を含む実数って何なのだろうか、と思ってしまいました。
今、ちくま学芸文庫の『柄谷行人講演集成1985-1988 言葉と悲劇』を読んでいますが、この中に「ドストエフスキーの幾何学」という講演があります。
ドストエフスキーの作品を貫く方法性として、非ユークリッド幾何学(的なもの)があるのではないか、という話なのですが、この中には、”ユークリッド的な作図に基づく遠近法を否定していくことが、近代絵画の歴史において示されている”という言及があります。少しそのあたりを引用すると、
「われわれの日常の視点は、ユークリッド的です。しかし、「知覚」そのものに接近するには、ユークリッド的な作図にもとづく遠近法を否定しなければならない……(中略)……。つまり、われわれの日常の視点(パースペクティブ)は、べつに自然なものではなくて、作為された視点、すなわち自分が神であるかのごとき視点なのです。したがって、それをひっくり返そうとする動きはどこにでもあるのですが、……(略)」
ここで、「それをひっくり返そうとする動きはどこにでもある」というのが面白いですね。ここにも、そこにも、あるのかもしれません。
さて、上の引用は、あくまで、視点(パースペクティブ)、遠近法といったものに関わるものですが、そもそも、私たちがユークリッド空間を考えるときは、実数の数直線で座標が示されているようなものを考えます。
ここで、数直線として、実数が出てくるわけですが、さて、現実の世界に、実数なんてあるのでしょうか。
例えば、正方形の対角線の長さは、$${\sqrt{2}}$$、つまり無理数であるわけですが、現実の物体は、(分割していけば、結局のところ)素粒子なんてもので出来ているわけです。それでは、無理数って、実体のあるものなのだろうか。
物理学では、実数どころか、(量子論などは)虚数まで使います。けれども、私たちの日常の知覚では、どのような意味で、実数のような(連続性のある)空間・時間認識(ユークリッド的な)をしているのだろうか。(無理数にみられるように)実のところ実在性がないように思われる実数が、どうして、どのような意味で、私たちの(ユークリッド的な)知覚の基準たりえているのだろうか。少し、分からなくなってきました。
私たちの日常の知覚における基準に、実は、実在性がないのではないか、ということです。私たちの知覚の基礎をなす(ユークリッド的な)基準も、実は、なんら自然ではない。……こういう言及も、先に挙げた「ドストエフスキーの幾何学」には出てきます。
ユークリッド的な知覚の基準(例えば実数の直線ですが)は、なんら自然では、ないのだけれど、でも、その基準なくしては、私たちは、おそらく、やっていけません。生きていけません。
そのことが、ちょっと不思議なことに思えてきます。
(2023年12月17日追記)
解析学では、実数論についての多くの証明が重ねられ、実数の概念は信頼に足る、堅固なものにされています。けれども、それだけ多くの努力を行わなければならない、というところには、実数概念の危うさ、といったものが背景としてあるのではないでしょうか。
古代ギリシアで、エレア派が「変化」や「運動」という考え方に対する批判、「変化」や「運動」の不可能性についての議論を行い、最終的に、アリストテレスが「連続性」の概念を導入したように、実数あるいは連続性といったものは、直観の基礎(カントの『純粋理性批判』の超越論的感性論におけるような)でもあり、また一方で、直観に反するものでもあるように思います。
(2023年12月17日追記その2)
次の書評を読みました。
『フーコーと精神医学: 精神医学批判の哲学的射程』(青土社) - 著者:蓮澤 優 - 斎藤 環による書評 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS
この中で、ミシェル・フーコーが、若い時期にカント研究をしていたことに関連して、こういった記述があります。
「……若きフーコーは、カントの体系に、次のような基本想定を見出す。すなわち、人間とは超越論的な主体性と経験的な主体性との奇妙な二重体であり、両者は交わることのないねじれた関係にある、と。」
今回の実数に関する話に関連づけてみると、ここでの「超越論的な主体性」が、私たちのユークリッド的な知覚の基礎をなす実数概念に相当し、「経験的な主体性」が、実際の世界で、正方形の物体の対角線をながめて、「$${\sqrt{2}}$$なのかなあ…。$${\sqrt{2}}$$じゃないよ。」とつぶやく私たちに相当するのでしょう。
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