知性主義/反知性主義という謬見について
こんな記事を読んだ。
この記事を読んで、驚いたのは、ここで対談している大学の先生たちが、「自分たちが、知性の側に立っている。」ということに、何ら疑問を、疑いを、感じていないように思われたことだ。
何という、知性の欠落した態度なのだろう。何という、知的なものの欠落した態度なのだろう。
これは、私の偏見だけれども、
(1)日本で、
(2)大学で、
(3)教員をやっている。
この3要素が揃っている人間が、知的なはずがない。
(※これは確かに偏見だけれども、でも、それでも『星の王子さま』ふうに言うなら、「ほんとうに大切なことは、(学校に引きこもっている)学者には到達できないんだ。」と思っている。これは、ホントに、そう思っている。)
まあ、そういう私の偏見は、放っておいて、改めて考えてみると、
知的であるということは、およそ、狂気といえるような懐疑の果てにしか、到達できないものなのではないか。
デカルトの懐疑が、方法的であるというのは、実際のところ、真っ赤なウソだと思う。懐疑というものは、実際のところ、方法的に行えるようなものではない。
ひとが懐疑に巻き込まれるとき、それは、選択の余地のないものであるはずだ。
いやおうなしに、ひとは、どこまでも、懐疑せざるをえなくなる。
それは、狂人になることと、ほとんど、変わらない。
デカルトの懐疑も、同じはずだ。方法的なんて言っているけれども、そんなのは、ただのウソだと思う。方法なんかではない。やむにやまれぬようにして、懐疑に巻き込まれていっただけなのだ。
ヒュームの懐疑だって、そうだ。わざわざそう選択して、懐疑を行うわけではない。疑わざるを得ない、どうにもこうにも、疑わざるを得ないから、疑うのだ。まるで、正気を失ってしまったかのように。狂気に陥ったかのように。
かろうじて、知的であるとは、そういった終わりのない懐疑の果てに、かろうじて、たどり着けるかもしれない、そういったものであるはずだ。
知性と称することのできるものは、そういったものでしかない。
だから、知性は、そもそも「主義」などというものではない。知性には、「主義」という言葉は伴わない。知性に、「主義」という言葉をつけるのは、まったくの、非ー知的な態度に、他ならない。
同じように、知性という言葉に、「反」という接頭辞は付かない。「反」という接頭辞が付けられるほど、知性というものは、堅固なものでも、確固としたものでもない。知性というのは、常に、危うく、脆く、すぐに崩れ去ってしまうような、はかないものである。だから、知性に反することは、そもそもできない。知性が、単に、消え去ってしまう、そういう状態が、ただ広がっているだけだ。
もとより、知性というのは、とても脆く、はかない。だから、日常において、知的なものが欠落していても、それはむしろ、ありふれていることであり、知性がいかに困難なものかということを理解していれば、むしろ、日常で、知性が欠落している状態は、当たり前のことのように、思われるだろう。
だから、私たちが生活する、この日常の世界において、知性がどこにも見当たらないとしても、それは、特に不思議なことではなく、ごく当たり前のことなのかもしれない。