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信仰と神学

(全く調べずに、書いています。誤りがあれば、ごめんなさい。いつもの、メモ書き、落書きです。)

信仰は、知解することができるという、アンセルムスの基本姿勢は、そもそも異端的、あるいは不敬虔ではないのか。

信仰=超越に対して、理性=内在で到達できるというのは、神学の基本姿勢であると思うが、なぜ到達できるのかといえば、内在に、もともと神性=超越が宿っているからだ、という説明になるのだろう。

そうであるならば、神学において、もともと、人間における神性が、前提されているということに、なりかねない。ちょうど、カタリ派のように。

つまりは、神学という営みそのものが、異端、あるいは不敬虔になりかねない、という側面があるように、思われる。

三位一体論では、父と子の同一性が、説かれる。しかし、ここにおいて、そもそも、子が、人間であるという前提がない。子は、人間を超えたものかもしれない。その、超える、ということは、程度の問題であり、子は、受肉された存在である以上、人間と同一視できるという考え方もあるかもしれない。また、受肉された存在であっても、人間とは異なるもの、そこに神性を見出してよいのだ、という考え方もあるだろう。

子に神性を見出し、人間とは異なるものとするのは、オーソドックスなキリスト教の思考であるように思われる。その場合、人間には、神性はないことになり、超越=信仰は、内在=理性によっては、到達できないものとなる。

三位一体を成立させる論理だけでは、子が、単独性あるいは特殊性を帯びているかどうかということとは、独立している。つまり、三位一体の論理だけでは、子が人間である(つまりは、人間というものに、超越者が内在している。)のか、それとも、人間を超越している(つまりは、人間というものに、超越者は内在していない。)のかは、決定できない。

プロテスタントにおいては、信仰を、理性によって到達することのできないものとして、超越性と内在性を、切り離す。



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