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「感情は隠すもの」

ドラマのステレオタイプ的な演出といえば、作家の平野啓一郎氏も不快を表明されていたのを思い出す。氏によれば、ドラマによる「罵声や怒号」のような過剰演出は「カッコよくない」らしく、なぜだか「家電のデザインがダサいと売れる説」という謎理論まで飛び出してきてしまって、なんとも困惑するばかりでもあるのだが…(笑)

とはいえ、平野氏に限らず日本のドラマの演出に違和感を感じ、同時に疲弊する視聴者も多いんじゃないかなと思う。テレビ東京の深夜枠やキー局のニッチな企画は除いて、自分はあまり日本の「人気俳優を揃えた類の」ドラマを見ることが少ないので、実際にどのような演出がなされているのかはあまり分からないのだけれど…

まぁ、そういう「記号」としての感情的な演出で、作品を引き立てようとしてしまう感じは、自分も正直言って好きではない。逆に、半沢直樹のように「それ自体をベタにしてしまう感じ」ならまだ、一歩引いた形で純粋にエンタメとして見られるのかもしれないが…単に、ここに怒鳴るシーンを置いておけば盛り上がるだろう、みたいな安直な演出に終始してしまう感じは、退屈に感じるし制作側の怠惰すら感じてしまう。そうはいっても、微妙な感情の動きを緻密に表現することで生まれる「難解な表現への適切な解釈が必要になる」問題もあるだろうから、大多数に向けた作品特有の難しさというのもあると思うんだよね…。

それに、これは日本の問題というより…普遍的に起こりうる現象でもあると思う。というのも…ハリウッドも含めたアメリカの映画のほうが、過剰に敵役への憎悪を掻き立てるするような…要するに、もっと「演出的にクドいシーン」が多い印象も受けるので、やっぱりそういう「大多数向けの作品」特有の扇動的な方向性の可能性も考えられる。特に、ハリウッド映画で描かれる敵は本当に酷すぎるものが多い、映画「ジャッカル」でも最終的に冷徹なブルース・ウィルス演じる冷徹な殺し屋が無駄に発狂するのを見たときは、一気に興ざめしてしまったのを今も憶えている…原作者が協力者として名を連ねるのを嫌がった理由、分かるなぁ…(笑)

そういうことも含め、上記のやひろさん(いつも引用させて頂きあざっす!/笑)の記事を読んでいて思ったんだけど、北野武監督の作品はまさしくやひろさんがおっしゃられている「反作用」を多分に含んだ描写が多いと思う。映画「ソナチネ」でも、長年連れ添った舎弟(寺島進の演じる「ケン」)が殺し屋にあっさり目の前で殺されたシーンで、親分たる村川(ビートたけし)が、殺される前にケンが遊んでいたフリスビーをなぜか投げて遊んでいるかのようなシーンが次に映し出されて、一見すると人が目の前で死んだこと、フリスビーで遊ぶことの関連性が分からないような印象を受けるのだけれど…

共演者の勝村政信氏がそのシーンを見て「号泣した」と話すように、まさしく亡き存在への「精神的な接近」も含めた「反作用」としての究極なのかなと思ったんだよね。通常なら、ベタに涙を流して後悔や復讐を誓うシーンにつながるのかもしれないけど、ソナチネではあえてそうしたシーンを一切排除して、反作用としての「遊びに興じるシーン」を差し込むことで、ある意味静かな悲しみを引き立たせる演出をしている感じで…俺も勝村氏の発言がなければ、恐らく演出の意図を本当の意味でつかむことができなかったのかもしれないけど、まぁホント北野作品のこうした表現は奥深いよね…。

ちなみに、「殺し屋」を演じたのは「南方英二」氏。チャンバラトリオというお笑いグループのメンバーで、北野監督にとっては芸人として「大先輩」に当たる方なのだけれど、撮影当初はヤクザに雇われた殺し屋という、いかにも凶暴な印象の役に南方氏が忠実に演じてしまったが故に、監督が「海岸をほっつき歩く釣り人」という設定にして、殺害する際にも感情的な要素を排除したものにすることで、典型的な演出では描けない「忍び寄る恐ろしさ」と「感情を排除した暗殺」を視聴者に強烈な印象を残すシーンが完成したとのことで、とにかく…非常に不気味で印象にしか残らない冷徹な殺し屋としての印象と、何より日常に忍び寄る暴力の恐ろしさも描かれてる気がして…とても強烈だったんだよね。

尚、南方氏は映画のエンディングで、自身の名前が「(大物出演者への敬意という意味で)一番最後のほう」に掲載されていたことに強く感激していたとのことで、ソナチネにおいても登場回数は少ないものの、あの非常に不気味で冷静沈着な殺し屋としての強烈な印象もあり、ある意味演者としての南方氏の別の角度からの魅力を引き立てたといっても過言ではないと思う。

他にも、「耳の不自由な男女」を主人公にした「あの夏、いちばん静かな海」では映像と音楽が純粋に醸し出す引き算の演出に挑戦したり、初期の北野作品では「反作用」がかなりの割合で描かれているので、現状放送や配信等は行われていないっぽくって、なかなか見られるかは分からないのだけれど…DVDレンタル等であると思うので、一度ご覧いただければと思う。

さて…反作用自体に話を戻すけど、感情を簡単に表に出してしまう人って…たけちゃんも言ってたけど、自分も「感情は隠すもの」という意味では大人の世界ではアウトじゃないのかなと思うことが多い。まぁ、俺も接客の時は失礼な客に当たるとムッとしてしまうことも多くて隠すのにずいぶん苦労したから、偉そうなことは言えないけど…(笑)少なくとも、周囲に当たり散らしたり、感情が先走って好き放題言ってしまう感じは、大人の世界ではあまりよろしくないことなんじゃないのかなって思うことは多い。

ゴッドファーザーを見ていても思うけど…感情を露わにしてしまうことは、相手に手の内を見られてしまうことでもあると思うから、その意味では「相手の頭になって考えろ」ということと「本音を漏らすな」という意味での「反作用」は、大人の世界では必要不可欠なのかなと思ったりする。あの作品はドンパチよりも、セリフや仕草の1つ1つに隠された意図に味わいがあるので、色々勉強にもなるし、何度も何度も見たくなるんだよなぁ…。

逆に、鬱の発症の前触れともいえる「症状を隠す意味での反作用」も、大人の世界では厄介な話で…自分もほぼそういう感じを続けていて体調を崩して、昨年に休職してしまったのだけれど、これも他人の場合は本当に人の感情を丁寧にくみ取っていかないと、表向きの印象だけで諸々判断していたら到底分からないよなぁって思うんだよね…。かといって、過剰に勘ぐってしまっても対応を間違えてしまうだろうし…。

仕事のプロではあっても感情面のプロではないから、そういう部分が相手に伝わらない、あるいは相手がそういう理解がなければ、いつまでも「あんなに元気だったのにどうして」みたいな、安直な疑問に走ってしまうことも多いのかなと思う。表向きの印象だけで相手を理解した風になるのは楽っちゃ楽なんだけど、やひろさんもおっしゃられるように、大人の世界はそこからさらに一歩踏み出して相手を理解することも大事なのかなって思うよね。だから、仕事のできる人と管理ができる人が、表向きは共通しながらも根本的に異なるってのは、確かにわかるんだよね…。


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