アドバイス不要論【ほぼ無料】

★先に誤解のないように書いておきますが、私は「アドバイスや注意を受けたので、それで助かった時代の人間」です。
しかし、現代は、私が後輩にアドバイスや注意をするのは、「後輩に失礼だ」という話です。またしても「時代の変わり目=氷河期世代が転換点」ということですが・・・、そんな時代の移り変わりを書いていきます。

封建社会(徒弟社会)の崩壊とともに、現代は、
個人から個人への自発的な助言という意味のアドバイスは、ほぼ不要になったとも言えます。

相手側がアドバイスを求めて来たら答えるのはOKですが、
それは「従来の意味のアドバイス」ではなく、正確には
「質問への個人的な回答(1つの意見)」なのです。
また個人が文章や動画などで世間(?視聴者?読者?観客?)にアドバイスとして発信する場合も、それは「従来のアドバイス」ではなく、
正確には「個人の主張(1つの意見)」です。

もちろん、アドバイスとはそもそもそういうものかもしれませんが、
特に噺家社会などで、後輩の高座を見て何か助言するのは昔はよくあったのですが、今は非常に難しい(難しくなっていく)と言えます。
では、

なぜ、噺家社会でアドバイスは、ほぼ不要になったのか?

という話が本日のnoteです。

もちろん、上方落語協会は日本社会の縮図なので、ここに書くことは日本国内で起きていることとも言えますので、噺家以外の方も「なるほど、現代ってそんな感じのとこあるよね?」と共感していただける気はします。
というか、ほぼ多くの方が「すでに知ってる内容」(そんなものわかってるわ!という内容)かもしれませんが、噺家社会を具体例にとって、分かりやすく書いていきます。

※あと、これは体感なのですが、、、東京の噺家社会の方が上方落語界よりも人数が多いのですが、日本の縮図みたいな雰囲気はないです。独特な世界で、私も全貌がつかめない社会です(笑) ですので、少し事情は違うと思います。 


なぜアドバイスは不要か?

※あくまで上方落語界においてのお話で、私の一個人の意見です。

【前提】として、
師匠から弟子へのコメントは、「指導」であり、アドバイスではありません。アドバイスとは、あくまで師匠以外の他の一門の先輩が、後輩に自発的に発する指導的コメントという風に定義してください。
そして、アドバイスとは「論理的に指導する発言(何らかの成功への道筋の提示)」だと思われます。

噺家同士のアドバイスは、
「口演してる落語そのものへのアドバイス」と
「落語家としての行動へのアドバイス」の2種類があります。

落語のやり方は今や多種多様ですし、各個人によって「正解」が変わりますし、「その落語で得る個人の成功」の定義も違います。
たとえば「こうした方がお客様が沢山笑う」という現象が起きるという方法論であっても、そうすることで「その落語家の華麗さが減少する」とか、「笑いは増えるけど、お客様がリピートしない」とか、別のマイナスが発生する可能性があるのです。ですから、方法論は千差万別であり、「何が絶対的に正解」とかはなく、落語をすることは「各演者本人が、自分が望む成功にマッチするような正解の落語を目指す」みたいな営みになっています。
そのような中で、師匠以外の人間が、他人の高座に何か改善案を提案するのは「大きなお世話」になってしまうのです。受け手は、「先輩が思う成功や正解」とは全く違うゴールを目指している可能性があるからです。
つまり、「こうした方が良いのに…」と思ったとしても、あくまでそれはそう思った個人の勝手な思い付きであり、それを実践することで受け手が本当に成功に近づくとは言えないからです。その意味で、まず「口演している落語そのものへのアドバイス」は無用だと思われます。

そして「落語家としての行動」も何が正解などは今や無いのです。
大阪は「上方落語四天王」がいた時代は、「大きな四つの正義があり、その正義も結構共通部分が存在する」という時代です。その時は、何が正解などはなくとも、少なくとも「何がダメ」とかの基準はもう少し存在していました。しかし、今や四天王が完全におらず、大阪の噺家の人口が250人を超えています。そうなると、それぞれの師匠がそれぞれの基準の正義を定義します。そうなると、「噺家としての成功や正義」も千差万別です。「何をしてはいけない」などは、自分の師匠以外が発することは出来ないのだと思います。
また何かトラブルがあっても、昔は「年功序列」の話でしたが、今は各噺家同士の「力関係」な気もします(残念ながら、私より後輩においてはです。先輩から私の世代においては年功序列のパワーは恐らく後輩世代よりも強いです)。
ただ、その「力関係」というのは、噺家の芸の力や経済的影響力(認知度・集客力)だけでなく、噺家社会というコミュニティにおける「信用度」という部分も含まれます。そういう「総合的な噺家としてのパワー」の優劣もある気はします。またそれ以外でも、「傍若無人さというパワー」なども影響を与えるのかもしれません。
以前は「遠慮や謙遜・諦め」なども必要と私個人は思っていましたが、現代社会においては「舐められる」と意外に良くないということもあるのだと思います。それゆえ「何らかのパワー(粗暴も含め)」という要素が人間関係を決めたりするのかもしれません…。

少し話はそれてる気がしますが、これは「前振り」です。
何が言いたいかというと、昔は「何があろうが、究極的には年功序列!」という明確なルールでしたが、今はそれが無いのです。今は「最終的には力関係!あるいは個人の自由!(もっと言えば無敵な人には力関係は存在しない!)」という世界なのです。もちろん表面的には「年功序列」ですが、一皮むいたらスグさま「個人の自由!」という恐ろしい本性が出てくる自由主義経済の社会なのです。ですから、そんな時代になった今、アドバイスなど無用だと言えます。

なぜ注意は不要か?

「アドバイス」とよく似た行為に「注意」というのがあります。
「注意する」というのは、アドバイスと違い、「何か間違った行為を訂正する」という行為です。
現代において、「注意」もほぼ無用になったと思います。
それこそ、噺家社会において、師弟関係でない状況において、先輩が後輩に「注意をする」のは不要になった気がします。
それはなぜでしょうか?

↓↓↓↓↓

まずは体験談的に書かせて頂きますと、不思議な話ですが、、、、
「たとえ注意をしても後輩が不快にならないような良好な関係」を築けている上下関係においては、実はそもそも、その後輩は、誰かに注意を受けなければならないような「失礼な行動」は基本はしないということです。
(現実的には、今は、ほぼ無いです)
簡単に言えば、ちゃんとしてる後輩は「もしも注意をしたら、ちゃんと受け入れて理解してくれる」のですが、そもそも「ちゃんとしてる後輩」は、ちゃんとしてるので、注意などしなくても良いのです(笑)
ですから、その状況においては、そもそも「注意は不要」ということになります。

そして、「注意をしないといけないようなおかしな行動をとる後輩」というのが存在した場合、そんな「注意を受けないといけないようなおかしな行動を取る人間」は、たとえ注意をしても、注意の内容そのものを理解できないのです。
「注意をしても、その注意の内容が理解できず、改善もしない人間」がいた場合、その人間に注意をしても無駄です。ですから、その意味で「注意」は無用と言うことが分かります。

これは現代が強烈に「論理」をもとにした社会になったからだと思います。噺家の職人集団であっても、知らない間に「論理集団」の要素が濃くなったのだと思います。
ある意味、「注意」とは「1つの正解に向かう論理的な提言」ですが、今は昔以上に「注意」は「非常に論理的な発言」になります。
昔は「ゴジャゴジャなしにこうなんじゃ!」という注意やアドバイスが存在しましたが、今は注意も絶対的に論理的な発言です。当たり前ですが、今は「暴力による注意」はありえません(笑) 先輩が後輩に理不尽に何かを怒ることはないのです。

そもそも「注意」とは、噺家社会全体が1つの秩序(正義)を守るために、先輩が後輩に指導する行動(権限)だったと思います。そこにおいて秩序を守る手段として現代は「暴力」が存在しないので、秩序を守る直接的な行動=「注意する」というのは、「論理によるコメント」しかないのです。そうなると論理によって秩序体系を理解できる人間は、当たり前ですが、最初から「注意を受けないような行動」を取れます。だから注意を受ける必要がないのです。もし「論理を使えない人間なので秩序体系を理解できない」という種族の人は、「注意(論理)」を浴びたとしても、そもそも理解できないのです・・・。ですから「注意」という作業は非常に無意味になります、残念ながら・・・。
(これについて「現代」と書きましたが、2200年以上前の韓非が既に「智を以て愚に説けば必ず聴かれず」と書いてますが。。。)

ただ、ひょっとすると「全く論理的でない注意やアドバイス」をする人間同士は、別のコミュニケーション能力によって「お前アホか」「ぎゃはははは」「すいません」などと言って、別な良好な関係を築いているのかもしれません。あくまで論理的思考をもとにした注意やアドバイスは、現代において無用になったということです。不思議な話ですが、無茶苦茶なアドバイスをする人間は、そういう属性の人間同士の関係においては有効なのかもしれません。論理的思考を持つ側が片方にいると理解不能で辛いですが・・・。
その意味で、昔は「秩序」を保つ意味で、「暴力による従属化」があったのかもしれません。「論理を尽くしてもわからない後輩を一応は従わせる」とか「論理で説明できない先輩が後輩を従わせる」という手段として、「暴力」が使われていたのかもしれません。しかし、現代において「暴力」はあってはならないことです。そうなると、不思議な話ですが、「暴力」とともに、今は「注意する」という行動も消えていく結果になったようです。コンプライアンスの世の中において、「暴力の消失」とともに、「噺家全体の秩序を保つ」という作業が消失したのだと思います。当たり前ですが、噺家世界も、一般的な社会と同じ「法による秩序」(日本国が掲げる秩序)だけになったので、「暴力」とともに「注意」が一緒に消えていったのだと思います。(噺家社会の秩序が消え、法による秩序のみが適用される社会になったということです)

あと、ここで注意すべき点がもう1つあります。
「注意をしても、その注意の内容が理解できず、改善もしない人間」であっても、実はそれが全員が全員、理解能力や論理能力が低い人間という訳ではないということです。現代においては先ほども書きましたが、まず「統一ルール(世界を統一する正義)」がなくなった=「必ずしも年功序列が絶対でなくなった」ので、それぞれ異なる文化を持つ社会が噺家世界の中に複数生まれたのだと思います。ですから文化=秩序が違うので、そもそも論理が通じるかどうか以前に、その土台となる「根拠」が果たして共通なのかどうかという問題が起きるのです。出発点が違えば、論理を尽くしても答えは変わるのですから。そして、文化圏が違えば「AならばBでしょ」と言っても、「AならばCですよ」としか返ってこない場合が存在します。そうなると、文化の違う人に「間違ってる!」と叫んでるのと同じで、現代社会は、そもそも「間違え」などないという状況とも言えます。ですから我々噺家社会は、文化の違う噺家同士が「どういうふうに共生していくか」という話になって来ます。(もう移民問題みたいな話です。)

今は「文化が違うのか」「論理的な理解度が違うのか」はわかりませんが、色んなコミュニティが発生しているのだと思います。またそれは「同じ噺家・同じ人間・同じ言葉を喋る」という状況なので、外見上、全く誰がどういう文化で、どういう論理能力なのかが全くわからないので非常に難しいです。
その意味で、昔なら先輩が後輩に「コイツ変やな?」と思った瞬間に注意していましたが、今は噺家同士で違和感を持っても「注意」は無用になったのだと思います。今は共生することが最重要課題になるので、「互いを尊重」という名の「スルーをする」ことが重要になるのだと思います。
(まさに「無視」ではなく、「既読スルー」という感じかもしれません。その行動を認知して、自分は責任能力がないがゆえに尊重=黙視するということです。)


東京の寄席では注意が可能なのはなぜか?

※以下について、私は東京の噺家ではなく、上方落語家なので本当は間違えてるかもしれませんが、外野から見た考えです。

東京の寄席というか、東京の噺家社会においては、「注意」や「アドバイス」は可能です(そう見えます)。それはなぜでしょうか?

答えは階級制度と寄席システムがあるからです。

東京は「階級制度」+「寄席の資本主義(実力の見える化)」があるので、
アドバイスや注意は「真打→二つ目」「真打&二つ目→前座」「前座の先輩→後輩」においては発生します。

東京の寄席は、ある種の「学校」や「会社」に近い部分があり、寄席を運営するために、寄席に参加している噺家は、それぞれ与えられた権限を持っています。「立て前座」(番組の進行の権限)とか「トリ」などはわかりやすい権限を持っています。
そういう場においては「運営するための上司と部下」「責任者と従事者」という権限が発生します。また、「真打」「二つ目」「前座」は全て資格的な意味がありますので、「教育期間・学習期間」が発生しますので、先輩と後輩において「指導員」と「指導される側」などの立場が生まれます。
その状況においては、「アドバイス」や「注意」はOKになります。ただ、その場合、アドバイスや注意は、厳密には「学校的な意味の指導」「業務執行による命令」なのかもしれませんが、、、、。
実際、我々が思う一般的な「アドバイス」や「注意」と同質な行動が東京の寄席においては行われていると言えます。
そういうと、大阪であっても、繁昌亭の「楽屋番」と「楽屋番見習い」、一門内において「年季中の弟弟子と兄弟子」などの関係においては、「アドバイスや注意」は発生しうると思います。言い換えれば、アドバイスや注意は、そういう限定的な「職責」が発生する場でしか今は行われていないということです。ポジティブに言うなら、そういう職責が発生する場ではアドバイスや注意は発生すると言うことです。


東京の寄席でも、ある時点から「注意」が発生しにくいのではないか?

一方で、現代において、売れっ子の若手真打に、ベテラン真打がアドバイスは、ほぼしないと思います(すいません、ここも憶測で喋っています・・・信頼関係があればありそうですが、ただきっと稀だと思います)。
なぜなら、若手真打であっても、売れっ子なら、そのベテラン真打より何らかの客観的成果を出してるからです。東京でも「経済的な成功」は客観的な成功であり、「芸の向上」は非常に主観的だと思います。ですから、もちろん主観としては年功序列としてアドバイスはしようと思えば可能です。
しかし東京の寄席は長い歴史を持っていますので、「芸歴はどこかの時点で必ずしも芸の優劣を決しない」&「芸の多様性」を既に看破していたのでしょう、、、真打制度により、その問題を解消したのだと思います。
東京は、「真打」になった瞬間に、年功序列は当然ありますが、形式的には「同じ階級(資格)」になります。寄席のトリは席亭が決めますし、そうなると「芸において何が良いか」「落語家としてどうあるべきか」という主観的な問題は、真打になった瞬間に「個人的な問題」になります。真打は、前座や二つ目に「教育」という名で好き放題「自論」を語っても大丈夫だとは思いますが、その言われた側も真打になった瞬間に自身の考えを持つので、適切な距離で色んな真打と接していくのだと思います。
つまり、真打になった時点で「寄席」は「教育的指導をされる場」ではなくなるので、アドバイスや注意が消えるとも言えます。
→その意味で、アドバイスや注意は「何らかの職責などが発生する限定された場」においてのみ発生すると言えます。
(ただ年配になると少し雰囲気は変わるのかもしれませんが…)

上方落語の世界は、東京と違い、真打システムがありません。その代わり「年季明けシステム」が存在します。
大阪は芸歴2~3年で、自分で仕事を取って良いので、ある意味、身分は「真打」と同じです。仕事内容は、芸歴10年~15年ぐらいまで、東京の「前座」と同じ行動内容・仕事内容をします。
ある意味、大阪の噺家は、東京の「二つ目」に当たる期間に、東京の「前座」と同じ仕事をするのですが、身分は「真打」と同じになるのです。そして大阪の「年季中」=東京の前座の時代は、ほぼ自分の師匠と一緒なので、他の先輩から直接的な指導を受けないことが多いです。ですから、大阪では今は「アドバイスや注意をされる場」が発生しにくいと言えます。
(それこそ、繁昌亭などでは「楽屋番」業務などにおいてのみ発生することが多いと言えます)

※現実問題、大阪も東京でもアドバイスのやり取りが完全になくなったわけでは無く、存在はしていると思います。ただ雰囲気として減少傾向であるとは思います。


後輩の「アドバイスして下さい」は社交辞令

後輩で「アドバイスして下さいよ。先輩の方が経験を積んでる人ですから、先輩から得る情報は有益でしょう」みたいなことを言う人もいますが、それを真に受けて、その本人にアドバイスをしても、結局不愉快な顔をされるだけです。それはなぜでしょうか?(笑)

本来、そういう後輩のコメントは、そういうアドバイスについての話題になったから、「社交辞令」として言うてるだけで、そもそもアドバイスは不要だと生物的には(本能的には?)思っているのだと思います。
今思えば、私が「アドバイスは不要」論などという話題をふったから、後輩がそんなことを言い出しただけで、能動的にそんな発言は聞いたことが無かったです(笑) 全て私が悪いですね・・・。
ある種、無理から、その社交辞令を言わした形ですから。


注意ではなく、本当に必要なもの

まずアドバイスは相手に「こうした方が良いのに…」という話ですから、それはハッキリ言って現代において「大きなお世話」です。相手も高度な知的生命体な訳ですから、何らかの算段を持って行動を行っています。ひょっとすると何かその瞬間マズかったとしても、その人にとってそれは実験的な試行錯誤の結果の1つだったかもしれず、それについてイチイチ何か言うのは野暮だと思われます。実験中なのですから。
ですから、アドバイスは基本は不要です。
つまり、後輩が何か高座でやっていて自分が改善点を思いついても、それは自分が個人的に思う事であり、後輩自身が必要としていないので言う必要はないということです。
また他人の高座の改善点は、自分自身に直接的に深く関係していないので、本来言う必要が無いとも言えます。一歩間違うと、「マウントを取りたい」という変な動物的な優越感を持とうとする衝動の可能性すらあります。ですから、してはいけませんし、私もそれを控えようとしています。

一方で、私などの旧弊な人間は、落語会において、思わず「注意をしたくなる」衝動にかられる時が発生します。たとえば、自分のハメもの(落語中に入る効果音)で、後輩が失敗をした時などです。というのも、それは、後輩への改善点ではなく、自分の落語と関係するからです。しかし、それでも後輩に「注意」はすべきではないです。
そもそも「注意をする」というのは「上から目線」ですし、落語会は「注意が行える責任関係」が発生しにくい場だと思います。落語会は基本は外注関係であり、「仕事を発注する側の噺家」と「仕事をもらって引き受ける側の噺家」に分かれます。基本は「外注業者側の噺家」にとって「発注業者側の噺家」はお客様になりますが、発注業者側も外注業者がいないと「仕事」が完遂できませんので、両者はご互いを大事に扱う必要があります。つまり、昔と違い「発注業者」と「外注業者」は対等なのです。対等ですから、「注意」はしてはいけないのです。「注意」は「上から目線」だからです。そして落語会は、他の業種と違い、1つの公演は継続事業ではなく、単発事業だからです。同じ外注業者に対して同じ作業がほぼ起こらないのです。ですから、落語会において、外注業者(後輩)がたとえ何かミスをしたとしても、それは「注意すべき事案」ではないのです。その外注業者に対して全く同じ作業が発生しないのに、ミスをしたからと言って「注意」をする必要はないのです。もちろん、私のような旧弊な人間は、衝動的に思わず「注意をしたくなる」こともあるのですが、注意はしてはいけません。ひょっとすると、外注業者がミスをして失敗したのに、「それでは次回もミスが起きるがな、どうすんねん?」とお思いの方もいるかもしれませんが、そういう場合「どうすべきか?」という話です。もちろん、そのまま放置というのとも少し違います。
↓↓↓↓↓
まず、そもそも「注意したくなる状況」とはどんな状況でしょうか?

それは何か他者が原因でトラブルが起きた時です。
何かトラブルが起きた時に「次回はこうしてほしい」と瞬間的に思った時に「注意したくなる」のです。しかし、そもそもなぜ「トラブル」が起きたのかという話です。
それは主催者や何かの責任者の「発注ミス」であることが多いのです。
「その業務遂行能力のない人間に何かを任せた」のかもしれませんし、「きちんと業務できるかの確認ミス(コミュニケーション不足・リハーサル不足)」の可能性があります。
そして、そもそも何かトラブルが起きたのなら、落語会においては、その案件は「もう取り返しがつかない」のだと思います。取り返しのつかないことを責めても仕方が無いのです。その時、現場でやるべきことは、「次回、どのように発注すれば上手くいくのか」を再検証し、主催者や責任者が改善案を出すことです。落語会は、毎回メンバーが違うので、トラブルが起きた時に誰かを注意するのは不毛なことです。トラブルが起きた時には、その責任者が「あぁ、こうすれば良かったのか」と反省し、次回の改善材料にするだけでよいのです。
昔のように先輩が後輩を注意したところで、今は、その後輩が「その注意を受けたことを活かす場」にほとんど遭遇しないのです。トラブルを活かすチャンスがあるのは「昔で言うところの、注意をしていた先輩」側なのです。その先輩側が、自分がいかに後輩がミスしないように「事前にキッチリ発注できているか」を改善すべきなのです。反省すべきは、責任者・主催者(先輩)という世の中なのだと思います。注意はトラブル責任者が自分自身に行うべきと言うことです。
外注業者(後輩側)は、仕事場が千差万別であり、どの先輩がどういうものを好むか、その噺家がどういうスタイルかを理解すればするほど、その外注業者は得意先が増えて気に入られて仕事が増えます。しかし、それは外注業者側が「自分の意志で、相手の好みを把握する」べきことです。
昔と違い、共通の正義もなければ、共通の仕事場も無い状況において、発注業者側(先輩側)が「たった1つの好み」を外注業者(後輩側)に押し付けるのは傲慢なのです。なぜなら、後輩にとってみれば発注業者側(先輩)が無数に存在するので、外注業者(後輩)も全員の好みを理解するのは不可能だからです。1人の噺家が覚えられるキャパシティには限界があります。
ですから、発注業者側が、自分の落語をより良くお客様に提供できるように仕様書を事前に外注業者に伝えきることが大事なのです。「終わってからの注意」はどうでもよく、「始まる前の準備」こそが一番重要なのです。
終わってから後輩に注意するのではなく、始まる前に後輩に「お願い」することが大事なのです。いわば業務連絡が一番大事なのです。
そして、何かトラブルが起きた場合は、主催者(発注側)が、今回のことを反省し、次回に活かすのです。「今回の失敗」=「次回に活かす反省材料」は、実は次回の準備だから必要なのです。それは「次回の外注業者が仕事を完遂できるようにする」という準備を発注業者がすることだからです。
そして、それは「次回の準備」なので、今回の外注業者に伝える必要はないのです。またその同じ外注業者が同じ仕事に当たった時に、発注業者がしっかり「お願い」として伝えるべきことであり、今「注意すべきこと」ではないのです。
だから必要なのは、「終わった後の注意」ではなく、「始まる前のお願い」なのです。しかも「お願い」は精神論ではなく、しっかりとした「業務連絡・仕様書」なのです。

ここまで書いたところで、、、
ひょっとすると旧世代の人にとっては「さみしい社会やなぁ」と感じるかもしれません。
「注意やアドバイスも出来ないのか、、、、」と、そして
「反省や注意は、自分に向けるべきであり、他人に向けるものではないのか、、、」と。
しかし、このような感慨はまだ序の口なのです。真に恐ろしいことが第二次ベビーブーム世代(氷河期世代)に起きつつある(起きている)のです。

我々には「アドバイスが必要かとか、それ以前の問題」が発生しているのです。いや、正確に言うと、実はもう「アドバイスは死んだ」という時代が来ているのです。


「アドバイスは死んだ」~タマトゥストラはかく語りき

アドバイスや注意とは、当たり前ですが、本来「よく分かっている人間」から「わかっていない人間」に送られるものです。
(先ほど書いた職責の世界においてもそうですが、旧時代の感覚的な社会であってもそうです)

ここまで書いた時点で、もうお分かりの方はいるかと思いますが、
ある時点で世の中のことをよく知ってるのは後輩になります。

そうなると、年功序列の建前において
「後輩は分かっていたとしても、分かっていないフリをする」ので、
よく分かっていない先輩に、当たり前ですが、後輩はアドバイスや注意をしてくれません。

また「智を以て愚に説けば必ず聴かれず」のルールを、若い世代は内蔵していますので、先輩が愚かしいことをしても後輩は何も言いません。
もちろん、人生は長いので、そう言う後輩もいつかは先輩側になります。つまり、賢者は愚者に何も言わなくなるので、誰も何のアドバイスも言わない世の中になるということです。ですから、どっかの時点で芸歴や年齢に関係なく、ただひたすらあちこちに愚者と賢者が発生します。もう、賢者と愚者がシャッフル状態です。
どの程度、自分が「賢者側」で、どの程度「愚者側」かは判定が難しいですし、分野によって「賢者と愚者」は入れ替わるはずです。社会で暮らすというのは、多様な分野の中での営みになるので、何が賢で何が愚かも非常にわからない世の中に我々は突入してしまいました。
ある種、私は「後輩にとっての先輩」であり、「先輩にとっての後輩」なのです。ですから今は、賢者の後輩は、私の愚かしい行動を見ても何も言いませんし、この新時代を何が正しいのか手探りで進むしかありません。従来のシステムで通用する部分は先輩を見習えば良いのですが、従来のシステムでは通用しない新時代の部分は後輩に習うべきところですが、アドバイスがもらえないので非常に難しい状況なのです。
昔は、先輩から「先人の知識」を手にすることが重要でしたが、今は後輩から「最新の知識」を手にする事も重要になります。しかし、先輩のアーカイブから学ぶ以上に、後輩と同じように「アップデートしていく」のが難しいのです。後輩はアップデートの仕方を教えてくれないからです。つまり、アップデートすべきと言えど、どのようにアップデートするのかが非常に難しい世の中になったということです。寿命的な問題や、人口バランス(世代の強さ)から考えると、氷河期世代より上の方々は何とか「逃げ切り」が可能かと思いますが、氷河期世代は後輩と勝負する期間が長いので非常に分が悪いと言えます。これが「真に恐ろしいこと」です。(まあ頑張るしかないのですが…)

まあ、ここまでは日本社会の「あるある」だと思います。
もちろん、この後の有料記事部分も「あるある」と言えば「あるある」です。
有料部分は、私的には、体感的に「もっと恐ろしい」と感じる事例ですが、ちょっとしたエピソードトークです。ご興味のある人はどうぞ。
【そんな大した話やないですが・・・】

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