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「恩徳讃」とハワイ

法話 95号 10月・11月 発行「恩徳讃」とハワイ」

河智 義邦

1.「恩徳讃」のこころ
  如来大悲の恩徳(おんどく)は 身を粉(こ)にしても報ずべし
  師主知識(ししゅちしき)の恩徳も ほねをくだきても謝すべし
                        (註釈版聖典610頁)
「阿弥陀如来の大いなる慈悲の恩徳には、身を粉にしても、報いてまいります。教え導いてくださる釈尊や祖師方の恩徳にも、骨を砕くほどに深く感謝するようになります。」
 「恩徳讃」は、親鸞聖人が85才頃に作られた和讃の一首で、真宗門徒はじめ寺院が設立している保育園や幼稚園、こども園、宗門関係学校(小・中・高・大)などご門徒以外の多くの人にも最も親しまれている和讃ではないかと思います。
 「身を粉にしても報ずべし」「ほねをくだきても謝すべし」この「べし」は、「しなければならない」という強制や命令ではなく、当然の意味もふくまれてきます。「信心を頂いた者は、報恩感謝する心が必ず起こるはずである」というものです。
 
2.2つの「恩徳讃」 仏教讃歌としての恩徳讃
 法要などで音楽の節が付けられて演奏されます。1918年(大正7)に澤康雄氏によって作曲されました。その後、戦後1952年(昭和27)になってから大谷派の清水脩氏が軽快で明るい曲調で作曲しました。現在、現在本願寺派では、清水氏によって作曲された新譜がよく歌われますが、逆に大谷派寺院では旧譜のほうがメインで歌われています。

3.ハワイ生まれの仏教讃歌  
 澤氏が「恩徳讃」を作曲した地は、ハワイでした。なぜハワイだったのでしょうか。明治になると日本からハワイへの移民が行なわれました。第1回ハワイ移民は、1885年(明治18)から1924年(大正13)までに合わせて14万人もの人がハワイに移民として渡ります。広島、山口、熊本、福岡など西日本の各県、特に真宗門徒の多いところから移民が多かったのです。
 移住した真宗門徒は、ハワイでも礼拝の習慣を絶やしませんでした。1897年(明治30)本願寺から正式に開教使が派遣され、1899年(明治32)にはハワイで最初の本堂が落成し、寺院としての活動が本格的に開始されました。その後ハワイ各地に寺院が築かれ、地域の日系真宗門徒の心の拠り所となりました。(現在ハワイには32の本願寺派寺院があります。)
 欧米の教会には音楽も伝道(ミッション)であるという認識があり、当時の仏教界でも近代的な仏教音楽が求められていました。それに応じて、当時本願寺ハワイ別院に赴任していた澤氏が、さまざまな仏教讃歌を作曲しました。その一つが「恩徳讃」でした。ハワイ生まれの仏教讃歌「恩徳讃」が日本に伝わり、日本でも歌われるようになったのです。真宗教義で強調される如来への報恩観が最も鮮明に表現されていることが好まれたのではないかと推測しています。
 
4.移民の多くが広島県民 浄土真宗のエートス
 移民の比率をみると、ハワイ、アメリカ西部、南米をはじめ、アジア、オセアニアなど、海外に移住した人たちの中で、広島県出身者が第1位で9万2千人、以下2位・熊本県の6万1千人、3位・沖縄県の5万5千人、4位・福岡県の4万4千人、5位・山口県で4万2千人となっています。
 広島県の西部地方は、安芸門徒の名で呼ばれるように浄土真宗の信徒が多い地域でもあります。浄土真宗は教義で殺傷を禁じていたので、江戸時代にはこの地域では間引き・堕胎などが行われず、他の地域に比べて人口増加率が高かった。つまり、江戸時代には子どもの食い扶持を減すため、赤ん坊が生まれたらすぐに殺してしまう「間引き」という風習がありましたが、広島県は浄土真宗の門徒が多いため、この「間引き」をしませんでした。
 その結果、人口増加による過剰労働力は地域経済はデフレなりる(人余り)、そこで、まず北海道の開拓民、後には当時の賃金の高かったハワイなどなどへの移民が多くでたと思われます。(「広島県移住史」(通史編、資料編))
 ※「北広島市」も同様。北海道には広島県や北陸地方からの移民が多かった。
 
5.なぜ「間引き」を避けた? いのちの真実に生きる
 全国的に相次ぐ飢饉によって、時には間引き(子殺し)しなければ一家共倒れという厳しい時代。それでも真宗門徒は教えを第一に考え、「 阿弥陀如来は、すべてのいのちは尊いとご覧になる。だからどんなに苦しくてもいのちを殺めてはならない、間引いては駄目だ 」と歯を食いしばって耐えてきました。その結果人口が多くなったのです。
 このように在家仏教である浄土真宗は、み教えをお寺の中だけに閉じ込めずに家庭に持ちかえり、生活の中で実践することを大切にしてきた伝統があります。 
<参考文献省略>

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